幸福な二人 サンプル | Of Course!!

幸福な二人 サンプル

 かつて隆盛を誇った貴族が力を失いつつあり、代わりに武士が勢力を伸ばし始めている時代。あるところで、一人の若い男が山道を進んでいた。彼は近ごろ台頭してきた武家の一つ、堀家の嫡子である政行だ。山を一つ越えた場所に住む親戚を訪ねる用事があり、今はその帰りだった。山といっても標高は低く、鷹狩りに訪れる人間の姿もたびたび見られる場所だ。馬を使ってもよかったのだが、足腰の鍛錬も兼ねて、彼は自分の足で歩いていた。

 親戚の家を出てからずっと、彼の頭には先ほどかけられた言葉がうずまいている。

『政行も十九なんだし、そろそろ嫁をもらえよ。跡継ぎも必要だからな。期待してるぞ、長男坊』

 そう言われ、背中を叩かれた。その時は苦笑いを浮かべただけだったが、政行だってそれは気にしていることだ。とっくに妻を娶っていてもおかしくない年頃だということも、武家の長男という立場の意味も分かっている。親戚も言うように、跡継ぎとなる子どもを産んでくれる女性を、一刻も早く迎え入れなければならない。

 そこまで理解しているのに、親が持ってくる縁談には乗る気になれなかった。親が選ぶ相手は武士の娘ばかりで、誰にしても嫁いできてくれれば、立派に妻としての役目を果たしてくれるだろう。縁談を断ることについては全く向こうに非はなく、政行の気持ちの問題でしかない。もっと早く結婚している者も多いし、何年も前から結婚そのものは意識していたのに、なぜ気が乗らないのだろうか。

 彼自身にとっても不思議なことだが、どんな縁談も彼の中ではしっくりこなかった。あまり選り好みしてもいられないが、生涯を共にする伴侶について妥協もしたくない。けれど、それはただのわがままだ。結婚は自分ではなく、家のためにするものなのだから。

 そんなことを考えながら足を進めていると、大きな川の近くを通りかかった。思わず水音のほうを向くと、木の枝に狩衣が掛けてあるのが見える。恐らく鷹狩りに来た貴族のものだろう。こんなところで水浴びでもしているのだろうか。いくら何でも不用心すぎる。

 呆れながら溜息を吐いた時、川の中の人影に気がついた。あれが狩衣の主かもしれない。一体どんな間抜けなのか、いちど顔を拝んでやろう。そんな気持ちで僅かに近づき目を凝らすと、整った横顔が視界に入った。歳は政行と同じくらいだろうか。水を肩にかけながら心地よさそうに目を細める表情からは、警戒心が全く感じられない。いま曲者が襲いかかってきたらどうする気なのだ。

 そこまで考えたところで、違和感を覚えた。水面から時おり覗く肩が、男にしては薄い。そう思って見れば、肌も透き通るような白さだ。いくら身体を鍛えていない貴族といえ、いい年頃の男にしてはおかしい。楽しげに水中で跳ねる姿からすると、身体が弱いとかこもりがちということもないだろう。果たして、あれは何者なのだろうか。

 その人物が岸へ歩み寄り、川から上がる。腕で隠された胸元が隙間から垣間見え、わずかながら膨らんでいるのが認められた。目を見開き凝視する政行に気づく様子もなく、その人物は枝から狩衣を引き下ろし、身に着け始める。つい脚の間へ目を向けると、男ならあるはずのものがない。その人物は男の格好をした女なのだと、結論づけるしかなかった。

 その光景は、政行にとって衝撃的だった。姉妹はなく、身近にいる女は実の母か年を取った女中くらいという彼にとって、歳の近い女の裸を見るのは初めてだったのだ。真っ白な肌、くびれた腰、細くしなやかな身体、全て今までに目にしたことがないものだ。濡れた髪を掻き上げる仕草も色っぽくて、政行の瞳はその人物に釘づけになっていた。

 どのくらい意識を奪われていたのかは分からない。気がつけば、その人物は既に姿を消していた。どこの誰かも見当がつかないが、その美しい顔も身体も彼の頭に焼き付いていた。また会いたい。どんな声で話すのか聞きたい。先ほどの楽しそうな笑顔を、自分に向けてほしい。あの綺麗な身体に触れたい。彼女の、『女』の面を見たい。

 彼女がどのような人間か知らないが、それでも一つだけ確信があった。夫婦として一緒になるなら、彼女しかいない。

 

 

 政行は、貴族とも付き合いがある知人に彼女のことを尋ねた。女というのは伏せて特徴を伝えたところ、

「多分それ、鹿島の長男ですよ。名前は鹿島遊輔です」

 という返答があった。

「鹿島

「はい、公家の一つです。貴族の男の中でも特に物腰が柔らかくて、教養もある雅な人物だと評判ですよ。貴族の中に、鹿島遊輔の名前を知らない人間はいないと思います」

「へぇ、けっこう有名人なのか」

「そうですね。ただ、雅だと言われてる割に、歌会には出ないですね。女性関係でも、様々な縁談が持ち込まれているようですが、どんなにいい条件でも断っているみたいです。女性に人気がある割には全く浮名が流れないし、もしかして男が好きなんじゃないかって噂もあります」

 本人も女なのだから、女と結婚しないのも男が好きなのも当然だろう。

「随分と変わった奴なんだな」

 性別を偽らなければ余計な勘ぐりを受けることもなかっただろうに、なぜ彼女は男として生活しているのだろうか。

「鹿島も、同じく縁談を断り続けている人には言われたくないと思いますが」

「うるせぇ。つーかおまえ、そいつのこと『鹿島』って呼んでんのか」

「はい。いちおう面識もありますし」

「どんな奴なんだ

「どんなと言われても。そうですね、噂だけで気取った奴だと思われることも多いみたいですが、けっこう気さくでさっぱりした性格ですよ。ちなみにさっき浮名が流れないと言いましたが、本人はむしろ女好きなのか、女性を口説いてるところをよく見ます。でも、口説いた相手といい仲になったりはしていないようなので、男好きをごまかすための見せかけじゃないかって言う人もいますね」

 話を聞けば聞くほど、彼女の人物像がよく分からなくなってくる。一体、彼女はどのような人間なのだ。

「それにしても、堀さんから鹿島のことを訊かれるとは思いませんでした。どういうきっかけですか

 政行の身体が強張る。果たして、どう説明したものか。

「それはまぁ、たまたまだ」

「何がたまたまなのか分かりませんが、深く訊くのはやめておきます」

「助かる」

 この知人はこうやって、興味がないことは流してくれるのがありがたい。

「鹿島の話をしていたら、久しぶりにあいつの書を見たくなってきました。あまり書いてくれないんですがね」

「書

「はい。男にしては筆致が柔らかくて繊細で、女性の字みたいなんですよ。あいつの書はけっこう好きですね」

「ふーん、そうなのか」

 彼に聞いた内容から考えると、彼女が女だと気づいている者も少なくないのではないかという気がしてくる。

「なぁ、おまえ」

「何ですか

 不思議そうな顔の知人に、政行が溜息を吐いた。

「いや、何でもねぇ。いろいろ訊いて悪かった。ありがとな、野崎」

「いえ、別に」

 知人野崎梅太郎と別れ、ひとり歩き出す。彼女がどこの誰か分かったのは、大きな収穫だ。だが、ぜんぜん足りない。自分は、本当の彼女が知りたい。

 

(中略)

 

 無事に祝言も終わり、夜が更ける。政行と彼女が共に閨へ入るが、見つめてくる彼女の表情は硬い。男と交わった経験などあるはずがないことを考えると、無理もない。

「あの、呼び方」

「ん 何でもいいぞ」

「政行さん、って呼ばないほうがいいですよね。私たちはどのようなお方も誰々さんとお呼びしますが、武家はそうではないでしょう」

「確かに、何かすげぇ親しげに聞こえるなそれ。別に俺はそれでも構わねぇけど、周りからの目を考えると『おまえ様』が無難じゃねぇのか 俺の母上も、父上のことをそう呼んでる」

「おまえ様」

 彼女は呟くと、何度かまたたきした。不思議そうに小首を傾げ、同じ言葉を数回くり返す。

「初めて聞く言葉なので、慣れるまで時間がかかるかもしれませんが努力します」

「別にそんな気張らなくてもいいけどな」

「いえ、そうはいきません。私はこの家に嫁いだ身です。郷に入っては郷に従え。一日でも早く武家の生活になじみ、おまえ様の助けとなりますよう努めます」

 両手を身体の前についた彼女が頭を下げる。背筋の伸びた綺麗な礼に見惚れていると、彼女が顔を上げて政行を見た。

「恐らく今後、長い付き合いになると思います。ですので、おまえ様との間にわだかまりは作りたくありません」

「そうだな」

「それにあたって、お尋ねしたいことがあります」

「分かってるよ」

 距離を詰めると、彼女の肩がわずかに跳ねる。右手で彼女の頬に触れ、顔を近づけた。

 

(中略)

 

「坊ちゃん遅いですねぇ。まだ結婚したばかりなのに、奥さんを置いてこんな時間まで飲んでるなんて。お嬢ちゃんも寂しいでしょう」

「大丈夫ですよ。皆さんもいらっしゃいますし」

 口元だけで微笑んだ遊は、女中に挨拶して一人で閨に入った。布団の中で横たわり、天井を見上げる。嫁いでくる前は一人で寝ていたのに、ここに来てからすっかり政行と枕を並べることに慣れてしまった。彼の手に敏感な箇所を触れられ、彼と一つになり、そのまま抱き合って眠る。それがどんなに幸せなことか知ってしまった以上、もう前の生活には戻れない。武家にいるからには、いざという時に政行を戦場へ送り出す覚悟も必要だと分かっているのに、一度のひとり寝で寂しがる自分は何と女々しいのだ。だが、少しくらい女々しくてもいいのかもしれない。自分は女なのだから。もう、男のふりをする必要だってない。

 遊が寝返りを打つ。思えば最初は、自分の性別をなぜか知っていた政行を警戒していた。父による茶番劇を終わらせるために縁談に飛びついたのは事実だが、話を受ける意思を固めるのにも、それなりに時間を要した。それがいつの間に、ここまで彼を慕うようになったのだろうか。今だって月明かりに照らされた視界の中で、隣が空白なのを改めて確認して、胸が締め付けられそうだ。

「おまえ様」

 小さな声で呼んでも、とうぜん返事はない。ただ余計に虚しさが増しただけで、遊は大きな溜息を零した。