大切なものはこの手の中に サンプル | Of Course!!
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大切なものはこの手の中に サンプル

 日が傾き、空が赤く染まっていく。人間はそろそろ今日の活動を終え、家に帰っている頃だろう。自分だって早く、自分の住処に戻りたい。それが存在するのであれば。

 歩き続けていた政行が、小さく息を吐く。どうしてこんなことになったのかといくら考えても、一向に答えは出ない。ただ彼の住処は最早どこにもないことと、彼がいま一人であることだけは確かだ。

 政行は化け狼であり、一般に妖怪と呼ばれる存在だ。だがしょせんは狼でしかなく、群れからはぐれてしまった途端、どうすればいいのか分からなくなる。途中まで一緒にいたはずの仲間たちは、姿が見えないどころか、匂いすら感じられない。もしかすると、彼らはこの近くを通っていないのかもしれない。

 もともと政行は、ここより北のもっと寒いところにいた。だが彼の属する群れが他の群れと対立した結果、戦いに敗れ、住処を追われることとなってしまったのだ。それからは争いから生き残った仲間と共に、新しい住処を求めて旅をしてきた。しかし適した場所が見つからないまま、時間ばかりが過ぎていった。食糧は道中で獣を狩れば手に入るが、生活の拠点がないという事実に、不安は募るばかりだ。そのような状況で仲間とはぐれてしまったことは、政行の心に大きな影を落とした。だが、落ち込んでいても仕方がない。

 そう思いながら足を進めているが、既に心も身体も限界だった。常に群れで行動していた彼はそもそも、長時間ひとりでいるというのが初めてなのだ。激しい孤独感にさいなまれながらも、足を止めるべき場所すら分からず、ただひたすら歩いていた。

 空に藍色が見え始める。さすがにこの時間になると、今日どこで寝るかを考えなければならない。だが、一人で眠るのは恐ろしい。もし自分を害する者が現れたら、うまく対処できるのだろうか。例え丸腰の人間が相手でも、自分ひとりでは太刀打ちできないかもしれない。そう思うくらい、一人での戦いには慣れていないのだ。このさい一睡もせず、進み続けたほうがいいのではないか。そんなことすら考えてしまう。

 政行の足取りが重くなってくる。足が疲れた。どこかで休みたい。でも、休むのが怖い。一体どうすればいいのだ。自分はこれから、どうなってしまうのだ。

 もういちど溜息を漏らした時、背後で茂みの揺れる音がした。振り返ると、青い瞳とかち合う。

「お疲れのようですね、狼さん」

 茂みから出てきたそれが、満面の笑みを浮かべる。一見すると人間のようだが、よく見ると犬のような耳としっぽがあった。

「おまえ、いつの間に」

 政行も狼の耳としっぽがついた人間のような姿ではあるが、それは政行とはまた異なる存在だと直感する。

「私の匂い、分からなかったですよね。すみません、ちょっと悪戯心を出しちゃいました」

「匂いを、隠してたってことか

「そうですよ。今なら分かりますよね 私の匂いも、私が何者かってことも」

 笑顔で首を傾げるそれは、政行より背が高いが女のようだった。声が高いし、今は女特有の甘い匂いを感じる。そしてその中に混じる、異質な匂い。

「おまえ、犬神か

 それが笑みを深める。

「ご明察です。ちょうどここから向こうが私の神域なんですよ」

 それが出てきた茂みを差した。

「行くところがないなら、ひとまず私の社に来ませんか

「は

 政行が眉を寄せる。

「おまえ、なに言ってんだ おまえ女だろ」

「はい」

「俺は男だ」

「見たら分かります」

「それでよく、そんなこと言えるな。警戒心ってもんがねぇのか

 それが首を捻った。

「何で警戒する必要があるんですか とりあえず来てください。狼さんが入れるように、結界はいじってますから」

 政行がうなだれる。ここまでたやすく妖怪、しかも異性を招き入れる神など、信じられない。あまりにも用心しなさすぎて、罠ではないかという疑いすら持ってしまう。だが頭を上げて、改めて見たそれの笑顔は、どう見ても無邪気そのものだ。

「本当に、おまえはいいんだな

「はい、どうぞ」

 それの顔をしばらく見つめ、政行が息を吐く。休めると思うと、途端に身体が軽くなった。

「分かった」

 それが笑みを深める。政行に近づいてくると、手を取って引っ張ってきた。

「よかった。こんな時間に一人で歩いてるから、気になってたんですよ。お腹すいてませんか ごはん用意しますね

 手を引かれるままに、政行が足を進める。社を持つ神ならば、人間から祀られている存在に違いない。奉納物として、食糧もたくさん得ているのだろう。神域に妖怪が入ってくることも普通はありえないし、外敵の心配はしなくてよさそうだ。自分とそれの性別さえ考慮しなければ、最高の宿を得たといえる。

「ここです」

 示されたものは、見たことがないくらい大きな社だった。社の端から端まで顔を動かし、政行が眉を寄せる。

「私ひとりなので、どうぞ遠慮なく上がってください」

「一人 使い魔とかは」

「いませんよ。特に必要ありませんし」

「必要ない、って」

「この辺は妖怪もほとんど見かけないし、人間もいい人ばかりですからね。少なくとも、泥棒と辻斬りはお目にかかったことがありません」

 それが笑って、中へ入るよう促してくる。尻込みしながらも、政行が社に足を踏み入れた。その場所の静かで清らかな雰囲気に、息を呑む。

「大丈夫ですよ、狼さん。犬神の端くれである私が言ってしまうのも何ですけど、神域でいちばん怖いのは結界です。神なんてみんな、結界さえしっかりしていれば大丈夫って思ってますからね。結界を抜けてしまえば、中は穴だらけです」

「そうは言っても、結界の中に入れたところで、妖怪の側もできることなんて限られるだろ。結界に入ってきた人間にちょっかいを出すか、神自身に手を出すか。もっとも、後者はまず失敗するだろうが」

 それが愉快そうに笑う。

「そうですね。私だって、仮にもこの地域一帯の守り神です。招き入れる相手くらい、ちゃんと選びますよ」

「つまり俺は、舐められてるってことか」

 それが政行の横を通り過ぎた。少し歩いたところで立ち止まり、振り返る。

「狼さんがそう思うなら、そうなのかもしれませんね。違うと言ったところで、私はそれを証明できませんし」

「そうかよ」

 それがあどけなく笑って、また足を進め出した。

 社の大きさは、人間からの信望の篤さと比例する。つまり巨大な社を持つこれは、かなり多くの人間から崇められている存在だ。となれば、いくらあどけなく見えても、根っからの考えなしではないだろう。

 それが障子を開けて、政行を招く。応じて中に入ると、それがろうそくに火を点けた。いつの間にか、外は完全な暗闇に包まれている。かすかな明かりの中で、それが笑みを浮かべた。

「すぐに食事を用意しますね。と言っても、鍋で肉や野菜を煮るくらいのものですけど」

「食い物はいい。そんな気力もねぇ」

「ああ、眠いんですか なら、寝床の支度をします。ちょっと待っててください」

 それが立ち上がり、障子の外に姿を消す。その後ろ姿を見送り、大きく息を吐いた。どこまでも警戒心のないそれが、他人ながらに心配になってくる。今まであまり気にする余裕がなかったが、よく考えれば、あれはかなり整った顔立ちをしている。身体も、簡単に押さえ込めそうなほど細い。実際にはたやすく組み敷くことなどできないだろうが、そう感じてしまうほどあれは儚げだ。

 あれは女で、自分は男。この社の中には、あれと自分しかいない。その状況を改めて思い返し、政行が頭を抱えた。現状、あれを襲うつもりはない。だが、政行も若い男だ。もしこの社での滞在が長引けば、妙な気を起こす可能性も充分あるだろう。早まったと後悔しつつも、他に休めそうな場所もないのだから仕方がないと、自分に言い聞かせた。

 そうして待っていると、足音が近づいてくる。障子が開いて、それが姿を見せた。

「お待たせしました。では、お部屋にご案内します」

 それがまた背中を向けてくる。歩き出したそれの後に続き、政行も足を進めた。それが手に持つ提灯だけが、政行の視界を照らす。左右に揺れる明かりを見つめながら進んでいると、それが立ち止まった。障子を開けられ、中を示される。

「さぁどうぞ、狼さん」

 覗き込んだ部屋の中には、寝具が調えられていた。政行が慎重に部屋へ入ると、それが政行に向き直り、笑顔を見せる。

「それではお休みなさい、狼さん。どうぞごゆっくり」

 少しずつ障子が閉められ、それの姿が隠れていく。それが提灯を持って立ち去ってしまえば、政行の視界は闇に閉ざされた。手探りで寝具に辿り着き、掻巻をめくる。その下に身体を潜り込ませ、目を閉じた。

 ついさっきまで寝床の心配をして怯えていたのに、図らずも宿を手に入れてしまった。あれの、犬神の考えは分からないが、さすがに取って食われることはないだろう。

 そんな思考を巡らせているうちに、意識が沈んでいく。遠くで、犬神の話し声が聞こえた気がした。