これでいい 堀side
鼻をすする音が部室の中に響く。周りは苦笑しながら、その主を見ていた。
「先輩、本当に引退しちゃうんですか? 嫌です、もっと一緒に部活したいです」
目元を覆いながら、鹿島が声を震わせている。それに大げさなくらいに肩をすくめて、軽く頭をはたいた。
「今生の別れじゃねぇんだし、これくらいで泣くな」
「これくらいって! 引退をこれくらいって!」
「卒業に比べれば、じゅうぶん大したことねぇだろ」
鹿島がまた鼻をすする。
「それは、そうかもしれませんけど」
涙を拭う鹿島に、苦笑いを浮かべる。まったく、イケメンが台無しだな。
それからしばらく部室内で部員同士が会話して、三年生の引退を惜しんだ。俺も後輩に声をかけられたり、次期部長と話をしたりする。鹿島も他の三年生と思い出話に花を咲かせて、やっと笑顔を取り戻した。
やがて一人、二人と部員たちが帰って行く。そして部室の中に残ったのは、俺と鹿島だけだった。
「さて、と」
鹿島が冷たい目を、俺に向けてくる。
「引退公演お疲れ様でした、元部長」
「あ、ああ。そりゃどうも」
俺と距離を詰めた鹿島が、ネクタイを掴んできた。
「分かってますよね。引退したからって、逃げられるわけじゃありませんよ」
「分かってる」
「本当ですか?」
ネクタイを軽く引っ張られる。
「私、先輩が大学きまったっていうの、人づてに聞きましたよ。私が何も言わなければ、忘れたふりしてうやむやにしようと思ってたんじゃないですよね」
鹿島の瞳が、ひときわ冷やかになった。
「そうじゃねぇ。まだ部屋は探してねぇし、ぜんぶ決まってから言おうと思ってたんだ」
鹿島が俺を睨みつけてきた。その目元は赤く腫れている。
「でも、おまえの気分を害したことは謝る。悪かった」
俺のネクタイを投げるように、鹿島が手放した。
「謝れば済むと思ってるんですか? 人をなめるのもいい加減にしてください」
鹿島が俺に背中を向ける。
「だいたい先輩は前から、私の命令もないのに足を舐めたりキスしてきたり、人をなんだと思ってるんですか。そういえばそもそもの始まりは、先輩がいきなり押し倒してきたことでしたっけ。結局のところ先輩って、私には何をしてもいいって思ってるんですよね」
「それは」
違う、なんて言えない。俺のやったことを考えれば、そう思われるのはおかしくない。押し倒した時に、そんな気持ちがあったことも否定できない。
少し振り返って、鹿島が俺を見た。
「弁解してみる気もないんですね」
「俺の弁解を、聞いてくれる気はあるのか」
「ありませんよ。そんなの意味ないです」
鹿島が、身体ごとこちらに向き直る。
「ちょうど約束の二週間が経つ頃ですし、今日まで耐えたご褒美をあげてもいいかと思ってましたけど、やっぱりやめます」
「……そうか」
まぁ、こうして話してくれるだけいいか。
鹿島が俺の顎に指をかけ、上向かせてくる。
「どうですか? なんでもしていいと思ってるはずの後輩に縋り付いて、ひざまずく気分は」
「どうって」
それ自体は、なんとも思わない。俺にとってそれは、こいつの傍にいさせてもらえる手段に過ぎない。でも、鹿島はなんて答えてほしいんだ?
「そこまでして私と一緒にいようとするなんて、哀れですね。随分と滑稽です」
そう思うなら、いっそ笑ってくれよ。
鹿島が小さな声で、何かを呟く。
「えっ?」
鹿島の眉が、わずかに寄った。
「なんでもありません」
俺から手を離して、鹿島が歩き出す。鞄を手に取ったそいつが、また冷たい目を向けてきた。
「では、私は帰ります。合鍵のこと、忘れないでくださいね」
「ああ。決まったらすぐに連絡する」
鹿島の瞳が、少し揺れた。けど顔を逸らされて、見えなくなる。
「そうですか。ではまた」
扉を開けて、鹿島が出て行く。その後ろ姿を見送って、戸締まりを始めた。こうして俺が部室の戸締まりをするのも、今日が最後だ。そう考えると、感慨深いものがある。
窓を全て閉じて、部室の中を見回す。ここにはたくさんの思い出が詰まっている。先に引退していった先輩たち、同級生、後輩たち。いろんな人間と、一緒に舞台を作っていった。だけど、目を閉じて一番に思い出すのは、鹿島の眩しいほどの笑顔だった。去年の春に出会ってから、鹿島があっという間に俺の中に入りこんできた。今じゃもう、何をしてでも、あいつから離れられないとすら思っている。
もしかしたら今後は二度と、鹿島が笑っているところを見ることはできないかもしれない。鹿島は今でもきっと、俺を許していない。俺を従わせることで、人前だけでも、前と同じように振る舞える。鹿島はそうやって、心の均衡を保ってるんだ。俺の思いだって、伝えさせてもらえることはない。一度は欲望に目がくらんで馬鹿な真似をしたけど、結局のところは、鹿島が好きだってだけなのに。
哀れでも、滑稽でもいい。ただ俺は鹿島の、好きな女の傍にいたい。あいつが笑顔を向けてくれるなら、それが嘲笑でも構わない。前みたいな無邪気な笑顔を向けてもらえる資格は、俺にはないんだからな。
でも許されるなら、一度でいいから、あいつを抱きしめたい。抱き返してもらえなくてもいい。色っぽさとは無縁の、ただ愛しさを伝えるだけの抱擁をしたい。けど、それが無理なのも分かってる。
溜息を吐いて、部室の外に出る。鍵をかけて廊下を歩きながら、来年から暮らす部屋のことを考え始めた。
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update 2016/10/10