これでいい 鹿島side
堀先輩が部活を引退して、何か月も経った休日。私の元に、一つのメッセージが来た。
『部屋の合鍵を渡したい』
先輩からだ。そうか、やっと部屋が決まったんだ。本当に、合鍵くれるんだ。
指を動かして、先輩への返信を打つ。
『いま私のうち誰もいないので、来てください。場所は――』
メッセージを入力し終わって、先輩へ返す。すぐに『了解』と返ってきたのを見ながら、ベッドに寝転がった。
先輩が引退してから今日までも、連絡を取って会ってはいた。場所は大体、学校の中でひと気のない場所だ。家で会うのは、今日が初めてになる。学校じゃ身体を重ねるのが難しい時も多かったし、今日はたくさんしてもらおうかな。ベッドもあるし。
なに考えてるんだろう。私が要望したら彼が抱いてくれるなんて、当たり前のことであるはずないのに。この関係がおかしいって、分かってるのに。
『哀れですね。随分と滑稽です』
先輩に投げた言葉が、あれから何度も私自身に突き刺さってくる。でも、自分が哀れだとは思わない。この関係を始めたのは、私のほうなんだから。
『ほんとに、滑稽だ』
あのとき呟いた言葉は、先輩に聞こえなかっただろうか。滑稽だよ、本当に。この関係に囚われて、身動きが取れなくなって、自分の気持ちすら伝えられなくなっている。でもこの関係を始めなかった場合、私たちは前と同じでいられたかというと、そうでもないと思う。私がいつも通りでいようとしても、先輩はきっと気にしてしまうだろうから。それで彼と笑い合う日常が崩れてしまうくらいなら、約束事があったほうが割り切れるはず。そう考えて、それが最善だと判断したのは私だ。なのにこの関係が始まってから、ずっと後悔してばかりいる。私は、どうすればいいんだろう。
ドアベルの音が、家の中に響く。部屋を出て一階に降り、玄関のドアを開けた。そこには、居心地の悪そうな先輩が立っている。
「上がってください」
「あ、ああ」
先輩が玄関に入り、靴を脱ぐ。脱ぎ終わったのを確認してから、歩き始めた。階段を上がり、部屋のドアを開けて、ついてきた彼を招き入れる。部屋のドアを閉めると、彼が部屋の中を見回し始めた。
「適当に座ってください」
先輩が少し考えて、床に腰を下ろす。私はベッドに座って、そんな彼を見下ろした。彼が鞄のポケットを探り始める。
「待ってください」
顔を上げた彼の目を見る。
「鍵は後でいいです。先に私を満足させてください」
目を丸くして、先輩が見つめ返してきた。視線は彼に向けたままベッドに乗り上げ、シーツの上を叩く。彼が立ち上がり、私に近寄ってきた。わずかにためらって、唇を重ねてくる。シャツのボタンを外され、胸に手を差し入れられた。首筋に唇を落とされて、かすかに息を漏らす。胸の上を這う大きな手が、性感を煽ってきた。手つきや唇の優しさに、目頭が熱くなってくる。私は、こんなふうに触れてもらっていい存在じゃないのに。彼を従わせて、傍に縛り付けてる醜い女なのに。彼の、恋人じゃないのに。
彼が傍にいてくれて、抱いてくれればそれでいいなんて、そんなはずがないんだ。私は先輩の、恋人になりたかった。
鎖骨を舐めていた彼が、顔を上げる。目元に溜まった涙が一滴、溢れて落ちた。一滴、また一滴と次々に涙が零れていく。
「鹿島?」
先輩の顔が、滲んでよく見えない。でもきっと、困ってる。戻らなきゃ。女王の顔を、しなきゃ。でももう、私は、
「ごめん、なさい」
無理だ。これ以上、彼に冷たくすることなんてできない。
「たくさん、言うこと聞かせて。ひどいこと、ばかり言って。ごめんなさい、先輩」
先輩が私に、手を伸ばそうとしたように見えた。そのまま撫でてもらえたら、撫でてほしいと言える関係だったら、どんなによかっただろうか。
「もう、終わりにしましょう」
「終わり、って」
「こんなふうに、会ったりするの」
先輩は今、どんな顔をしてるんだろうか。もう全然、分からない。
「痛かったか? 俺の触り方が、何か悪かったのか? それとも他に何か、おまえの気に障ることを」
「違います。先輩は、何も悪くありません。私が」
しゃくりあげて、目元を手で拭った。
「私が、もう、耐えられないんです」
さっきより晴れた視界に、困惑した先輩が映る。
「私のわがままに付き合ってもらって、すみませんでした。もう充分です」
「充分、か」
先輩が俯いて、私のシャツを握りしめる。
「なぁ鹿島。この際だから言いたいこと、言わせてもらってもいいか?」
一体、何を言う気だろう。聞くのが怖い。
「はい」
でもいっぱい振り回したし、ちゃんと聞かないと。
「俺は全然、充分じゃねぇ。どんな形でも、もっとおまえに会いたい。もっとキスしたいし、もっと触れたい」
顔を上げた先輩が、力強い瞳で見つめてくる。
「おまえを無理やり襲おうとした俺が、言えることじゃねぇと思う。でも俺は、おまえとこれで終わるつもりはねぇ。わがままでも、言うことがひどくても、なんでもいい。俺は、おまえが好きだ」
分かってる。どんなに私が冷たくしても、いつも優しく触れてくれる彼の手を、私は知っている。恐らく彼は、その気持ちを私に伝えるつもりがなかっただろうということも。だって彼はきっと、それを告げる資格が自分にないと思っていたはずだから。それでも言ってくれた彼に、私も応えないといけない。
先輩の頬に、自分の手を添える。彼の目を見つめて、口を開いた。
「私も、先輩が好きです。先輩としてじゃなくて、一人の男性として」
先輩が目を見開く。私が泣き出した時よりも、困っているように見えた。
「本当か?」
頷くと、頬に添えた手を握られる。
「なんか、都合のいい夢を見てるみたいだ」
「それは私のセリフです」
「おまえは俺を軽蔑してて、ずっと許してくれてねぇと思ってた。それでもおまえの傍にいられるなら、なんでもよかった。もし告白できたとしても、先に襲ったって事実がある以上、言い訳にしかならねぇだろうし。ヤりたいから都合のいいこと言ってるって思われても、否定できねぇからな」
「私こそ、あんなふうに従わせて、実は好きでしたは虫がよすぎだと思ってました。だから、言えないなって」
互いに顔を見合わせて、笑みを零す。こんなふうに笑い合える日が、また来るなんて。
「馬鹿みたいだな、俺たち」
「本当ですね」
先輩が私を思ってくれてるのが分かっていて、私も同じ気持ちなのに、どうして時間がかかっちゃったんだろう。ちょっと余計なことを気にしすぎたのかな。
「なぁ鹿島。おまえ、怒ってねぇのか? あの時のこと」
「いえ、全く。襲われた時はちょっと怖かったですけど」
先輩が、ばつの悪そうな顔で目を逸らす。
「悪かった」
「いいんですよ。それよりも私、先輩との関係が壊れることのほうが、もっと怖かったですし。でもあのとき私が気にしてないって言っても、先輩は気にしそうだなって。それでぎくしゃくしたら嫌だと思いまして」
「その結果が、おまえに従えか」
首を縦に振る。
「私の命令でやってるってことにしたほうが、先輩も気兼ねなく私に触れるかなって」
先輩が言葉に詰まる。なんとも言えない表情で、顔を俯かせた。
「けっきょく俺はやっぱり、おまえに情けをかけてもらってたんだな」
「えっ、いえ、別にそういうつもりはなかったんですよ。でも、そういうことになるんでしょうか」
先輩が溜息を吐いた。
「まぁいい。どっちにしても、ここに来た目的は果たせそうだしな」
私から離れた彼が、鞄のポケットを探る。中から鍵を取り出して、私に差し出してきた。
「約束の合鍵だ。受け取ってもらえるか? 俺の、彼女として」
手を伸ばして、鍵を手に取る。
「はい」
先輩が安心したように、表情を緩める。それに私も微笑むと、身体を優しく抱きしめられた。
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update 2016/10/10