悪魔のディストレス
「ジレンマ」~「願い」の後の話です。
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世界のどこかに、魔界と呼ばれる場所がある。そこには魔力を持つ異形の者たちが暮らしており、人間からは「悪魔」や「怪物」と呼ばれ、忌み嫌われていた。だがそんな悪魔たちも、ただ人間を害するだけの存在ではない。彼らなりに思いがあり、悩みも抱えている。
魔界を統べる「魔王」の眷属であるユウも、そんな悪魔の一人だ。彼女はサキュバスで、男性と寝ることで得られる精気を糧としている。彼女は愛する男性以外とは決して身体を重ねないと心に誓い、それを果たした。思う相手と共に過ごし、彼の右腕として働く彼女は、今まででいちばん幸せな時間を過ごしていた。ついこのあいだまでは。
魔王の城にある、庭の片隅。花々が咲き誇るその場所に、彼女はしゃがみこんでいた。膝の上に顔を伏せて、小さく息をつく。数日前の出来事が、彼女の頭に渦巻いていた。
それは、ユウが人間の世界から帰る時のことだった。知り合いの人間からもらった果物を抱え、彼女は魔界の中を歩いていた。
『ユウ』
背後からの声に、彼女は立ち止まった。長いあいだ聞いていなかったその声に、耳を疑う。
少しずつ振り返ると、一人の女性が立っていた。胸や脚を露出する服に、色気を湛えた口元。人間の想像するサキュバスは、まさにこのような姿をしているのだろうと思える出で立ち。
『おかあ、さん』
女性が口角を上げる。ユウに歩み寄ると、彼女の頬を撫でた。
『相変わらず色気ないわね、あなた』
ユウが距離を取ると、女性が笑みを深める。
『聞いたわよ。新しい魔王の眷属になったんだって? やるじゃない。そんな身なりで、どうやってたぶらかしたのかしら』
『たぶらかした、なんて』
眉を寄せたユウに、女性が笑い声を立てた。
『そんな睨まないでよ。せっかくの再会じゃない。それにしても驚いたわ。まさかあなたが、魔王の精気に耐えられるなんて』
女性がまた、ユウに近づく。
『あなたが大丈夫なら、母親の私でもいけるかしら』
ユウの眉間に、しわが増えた。女性は愉快そうに笑いながら、ユウを見つめる。
『あら。さっきは相変わらずって言ったけど、訂正するわ。あなた、変わったわね。男にはぜんぜん興味ないって感じだったのに』
歯を食いしばりながら、ユウが女性へ視線を返した。
『言っとくけど、私が平気だからって、お母さんも大丈夫とは限らないよ。お母さんの血じゃなくて、父親の影響かもしれないし』
『そうかもね。でも、試してみる価値はあるんじゃないかと思うわ』
『駄目だった時のリスクが大きすぎる』
女性が肩をすくめる。
『確かに、それはネックね。でもあなたが耐えられたって事実があるんだから、そりゃ気になるじゃない?』
ユウに背中を向けて、女性が足を進める。
『じゃあユウ、またね』
女性の後ろ姿を、ユウが見送る。その表情は、とても険しかった。
母親である女性と顔を合わせたのは、何十年ぶりか分からない。ずっと彼女は、ユウの前に姿を現すことはなかった。それなのに今さら出てきたのは、彼女自身も言っていた通り、ユウの相手に興味があるからだろう。
ユウは、自分の母親が苦手だった。サキュバスとしての生き方を教えてやると言い、男性とセックスする様子を何度も見せつけてきた母親に、いい感情は持てない。そんな母親がユウの好きな人に、魔王に迫ろうとしている。それを考えただけで、胸が苦しくなった。
現実には母親も、すぐに行動を起こすことはないだろうとユウは考えている。魔王一族は魔力が強く精気も多いが、逆に多すぎて、大半のサキュバスは受け止めきれないからだ。耐えられなければ廃人状態になったり、最悪の場合は死に至ることもある。だが、ユウは耐えられた。その事実が、母親に希望を与えてしまっている。
普通に考えれば、母親が迫ったところで、彼が拒否すればどうしようもない。サキュバスには男性を惑わすフェロモンがあるが、彼は魔界でいちばん魔力の強い魔王だ。フェロモンくらい、いくらでもかわしようがある。それに彼はユウと同じく、セックスは好きな相手とするものだと言っている。その口でユウと唇を重ね、身体を暴いてくる。だから何も、不安に思うことなどない。
そのはずなのだが、ユウの心は晴れない。なぜなら彼は、ユウが空腹を覚え、精気を求めた時しか抱いてこないからだ。いざ行為を始めると何度も求めてくれるが、日頃は口づけを交わせばいいほうだ。彼の愛情を疑うつもりはないが、本当はあまりユウに対してその気が起きないのではないかと思ったこともある。そこに母親が現れた。彼女はユウよりも小柄で、胸も豊かで女性らしく、色っぽい。彼女から誘いをかけずとも、声をかけてくる男性が何人もいたのをユウは知っている。もし彼女が彼にモーションをかけたら、一体どうなるのだろうか。やはり男性の本能として、彼も彼女に惹かれたりはしないだろうか。気持ちが完全に移るわけじゃなくとも、一回くらいは彼女と情を交わしてみたいと思うことがあるのではなかろうか。
首を大きく左右に振り、顔を上げる。これでは結局、彼を疑っているのと同じだ。彼は真摯な性格だし、一夜の過ちなど犯したりしない。そう自分に言い聞かせ、立ち上がった。城の中に入り、廊下を進んでいく。リビングに入ると、本を読んでいた彼が振り向いた。
「ユウ?」
歩み寄ったユウが、彼の首元に腕を回す。
「マサユキ先輩」
マサユキの髪に頬ずりして、ユウが彼の目を見た。
「抱いてください」
マサユキが目をしばたたかせる。
「腹でも減ったのか?」
「いえ、特に。でも、先輩としたいです」
少し思考した後、マサユキが腕を外させてきた。
「なら、別にいいだろ」
「なんでですか? なら淫魔以外の種族は、子どもが欲しい時しかセックスしないんですか? 違うでしょう?」
マサユキがユウの顔を覗き込む。
「どうした、ユウ。何かあったのか?」
「別に、何も」
彼から目を逸らし、ユウがまた抱きつく。
「先輩は、私とそういうことしたいって思わないんですか? 私のお腹が空いてるとか空いてないとか、関係ないって思ったことないんですか?」
「それは」
マサユキの腕が、ユウの背中に回った。
「思う。でも、おまえにあまり負担をかけたくは」
「負担じゃありません。サキュバスにとっては、それが食事なんですから」
「それとこれとは話が別だろ。誰だって食いすぎれば苦しくなるし、限度ってもんがある。それに」
マサユキが、腕に力を込める。
「そういうことばかりしてたら、まるでそれ目当てで一緒にいるみてぇじゃねぇか。そういうのは嫌なんだ。俺はおまえがサキュバスだから、そういうことをするのに都合がいいから一緒にいるわけじゃねぇ」
ユウの瞳が揺れる。抱きつく力を強めて、彼の首筋にすり寄った。
「でもそれだって、俺が勝手に考えてることなんだよな。現に今、おまえは不満に思ってるんだし」
「不満、というか」
脳裏に母親の姿が浮かぶ。「またね」と言う声が、頭の中を駆け巡った。
マサユキの手が、ユウの髪を撫でる。
「何があったのか知らねぇけど、俺がおまえをどう思ってるか、お望みなら教えてやるよ」
ユウの耳元に、息がかかる。
「身体でな」
ユウの背筋が震える。頬に熱が集まり、胸が高鳴った。
「お願い、します」
マサユキが小さく笑う。頭をよぎる母親の姿を打ち消すように、彼と深く唇を重ね合った。
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update 2017/2/7