哲学的ゾンビの話
意識がないのに、意識があるように振る舞う存在を哲学的ゾンビというとネットで知り、おもしろそう!と書いてみたものです。哲学的ゾンビだった鹿島くんの話。
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私の意識は、ある日いきなり途切れた。確か、そろそろ小学校を卒業するという時だ。意識不明になるような大層な外傷を追ったわけでもなく、とつぜん闇の中に包まれて、目の前の全てが閉ざされた。痛くなかったし、恐らく身体は無事なんだろうと分かってはいたけれど、それでも自分が「死んだ」と感じた。
そんな私の意識が再び目覚めたのも、また唐突なことだった。気がつけば私は、体育館と思われる場所で舞台に立つ、一人の男性を見ていた。どうやら演劇が上演されているようで、舞台上には当然、彼以外にも人がいる。でも私の目は、真っ直ぐと彼だけを見ていた。彼はスポットライトで照らされているのを差し引いても、圧倒的な存在感を放って輝いている。忘れたくない、彼のことだけは。
演劇を観終わった後、私の意識はまた閉じそうになった。それを何とか堪えて、辺りを見渡す。体育館の外を歩いていると、『浪漫学園文化祭』の文字が視界に入った。そうか、彼はこの学校――浪漫学園の生徒なんだ。それを確認したところで、私はまた眠った。
次に目を覚ましたのは、浪漫学園の入学式の日だった。式の様子などは覚えていない。ただ、声が聞こえたんだ。
「なぁ、おまえ」
声のほうを向くと、文化祭で舞台にいた彼が私を見ていた。そして、演劇部に勧誘された。願ってもないことだ。元々、私はそのつもりだったんだから。もちろん私は、喜んで了承した。その時の私の反応は、彼にとってまるで小学生のようだったかもしれない。でも三年分の記憶が抜け落ちた私はあれ以上、どう喜びを表せばいいのか分からなかった。いわゆる思春期の記憶が、数年も丸ごと抜けているというのは大きい。
それからというものの、彼といる間には私の意識が目覚めるようになった。それはとても嬉しいことだけど、非常に神経を使うことでもあった。だんだん私も理解してきたけど、『私』は私の意識が眠っている間も、まるで意識を持って振る舞っているように活動しているらしい。精巧にプログラミングされて、他人から見れば人間としか思えない高性能人型ロボットみたいなものだろうか。意識がないまま動いているその『私』と、目覚めている間の私。その両者の言動に矛盾があれば、周りは不思議に思う。私は起きている間なるべく、『私』を演じなければいけない。周りに『私』がどう認識されているか情報を集めて行動し、「私らしい」と言われる度に胸を撫で下ろす、そんな毎日。いつも眠る頃には、私の心は疲れ切っていた。
でも私は、彼の前でだけは『私』のことを忘れて行動していた。だってどうせ、彼といる時はいつも起きてるんだから、『私』は関係ない。私の様子が彼の前でだけおかしかったとしても、周りは彼への好意から私が妙なことをしていると思ってくれているようで、特に不審がられることもなかった。そうやって過ごしているうちに、彼以外の人たち――演劇部の仲間やクラスメイトなども少しずつ覚えていって、私はだんだん彼がいなくても起きているようになってきた。その頃には随分と開き直っていて、『私』を演じるのも部活の延長のような感覚で楽しめるようになっていた。女子たちに囲まれて騒がれている時も、「学園の王子様」なんて呼ばれる私と普通に接してくれる女友達といる時も、親友と呼べる相手といる時も、ただ楽しかった。
そうなってくると、疑問が湧いてきた。こんなに楽しくて輝かしい日々が目の前にあるのに、何で私は眠っていたんだろう。眠っていられたんだろう。何か原因があったんだろうけど、全く思い出せない。私の認識としては、本当にそれは前触れなく起こったことだった。でも、何の理由もなくこんなことが起こると思えない。いやむしろ、たまにでも意識がある私のほうがおかしいのだろうか。もしかしたら、私以外の人も意識なく動いていて、何の意思も持っていないのかもしれない。だって、本当に他人が思考して動いているかなんて、確かめようがないんだ。何も考えなくても動くことができるってことは、『私』が証明している。もしそうだとしたら、何て怖いことなんだろうか。彼が私を勧誘したのも、彼の意思なんて全く反映されていないかもしれないなんて。
恐ろしいけど、確かめたい。あれが彼の意思なのかどうか。
部活が終わって、部員たちが帰っていく。残って戸締まりをする彼は、私に背中を向けていた。
「鹿島、おまえ帰らねぇのか?」
「帰りますけど、せっかくだから先輩と一緒がいいなって」
彼が溜息を吐く。窓越しに空を見た彼が、「まぁ、時間も遅いしな」と呟いたことにガッツポーズをした。
戸締まりを終えた彼と並んで、学校の外に出る。見上げた空はすっかり暗くなっていて、星がまたたいていた。すごく綺麗だ。何年もこれを見逃していたのが惜しまれる。
「鹿島、どうしたんだ今日。何か話でもあんのか?」
「うーん、そうですね」
さて、どう切り出したものだろうか。どんな尋ね方をしても変に思われるには違いない。そこまで考えたところで、図書室で読んだ本に載っていた言葉を思い出した。
「先輩は、哲学的ゾンビって知ってますか?」
「はぁ?」
彼が足を止める。私も立ち止まり、彼を見た。その表情は不信感に満ちている。
「何の話だ」
「本で読んだんですけどね、意識がなくても意識があるように振る舞う存在をそう呼ぶらしいです。傍から見ると、意識がある人間とまるで変わりないんですよ。何かすごいですよね」
彼が呆れたように息を零した。
「雑談にしても、もう少し楽しい話をしろ」
「私にとっては重要な話です」
彼が私を見る。その瞳に自分が映ったのを認めて、微笑んだ。
「私ね、哲学的ゾンビなんですよ」
彼が訝しそうな表情を浮かべる。しばらく私を見つめた後、額を押さえて俯いた。
「そんなつっこみづらい冗談、どこで覚えるんだ」
「まぁ、そう思いますよね。別に、信じてもらえるなんて思ってません。それに、今は違うんです」
私が歩き出すと、少しして彼も歩を進める。
「今は違うって?」
「私の意識は、起きたり眠ったりしてるんです。でも私の意識が眠っている間も身体は動いているみたいなんですよ。家に着いたところで意識が途切れた後、次に気がついたら部室に向かっていたなんてしょっちゅうです」
「……いつから」
「起きたり眠ったりっていうのが活発になったのは、高校に入ってからですね。でもその前は、三年ほど眠りっぱなしでした。小六の時に途切れてからずっと、私の意識は真っ暗闇の中だったんです。次に目が覚めた時には中三で、高校の文化祭を見に行ってました。意識が途切れた時に私、自分が『死んだ』んだと思ってたので、生きてたし目線も高くなってることに驚きましたね」
彼がまた息を漏らす。今日の彼は溜息ばかりだ。
「どんな気分なんだ、それ」
「どうって言われると、コメントに困りますね。自分でもいつ起きていつ眠るか分からないし、何かもう慣れるしかないというか。ああでも、最初は今の自分の立場も年齢も分からなくて混乱しました」
彼を見ると、何とも言えない表情を浮かべている。
「信じてくれるんですか?」
「半信半疑ってとこだな。おまえはなに考えてるかよく分かんねぇけど、そんな性質の悪い冗談を言う奴じゃねぇ。でも、漫画か何かの話みたいで、それが現実に起きてるなんてなかなか」
「いいんですよ。それが普通です」
彼に笑いかける。私を見上げてきた彼は、真剣な顔つきだ。
「で、何が言いたいんだ。まさか、それをカミングアウトしたかっただけってことはねぇよな」
さすが先輩、鋭い。
「やっぱり自分がこんなだと、他の人もそうだったりするのかなってちょっと考えちゃうんですよね。一見すると自分の意思で行動しているようでも、何というか、そう行動するようにプログラムされてるだけなんじゃないかなって。そう思っちゃうと、どこまでが本当に相手の意思なのか分からなくなっちゃって」
再び立ち止まる。彼も止まって、私を見つめてきた。
「そんなわけないと思うのに、先輩が入学式で声をかけてくれたのももしかして、なんて考えちゃって」
目頭が熱い。こんな感覚、何年ぶりだろうか。
「先輩の意思を疑ってる自分が、すごく嫌なんです。でも確かめようにも、本当に相手に意識があるかなんて、どうやって確かめたらいいっていうんですか。『私』みたいに、周りの誰も不思議に思わないくらい自然に行動してるゾンビなんて、見分けられないですよ」
頬を涙が伝う。目元を拭っても溢れてきて、止まらない。そんな私の頬に、彼の手が添えられた。
「おまえの話が本当だという前提で訊く。おまえはいま意識があって、自分の意思で俺にカミングアウトしたって誓えるか?」
ハンカチで涙を拭いて、頷く。
「はい。というか私、先輩といる時はいつも起きてます。そもそも中三の時、久しぶりに起きたのも、浪漫学園の文化祭で先輩の演技を見た時だったんです」
彼が目を見張った。私は滲んだ涙もそのままに、笑う。
「よく分からないけど、先輩の姿を見つけた瞬間に飛び起きてるみたいです。もしかしたら意識がない状態で先輩と会ったこともあるのかもしれないですけど、少なくとも私が起きたきっかけが先輩なのは間違いないです」
彼がやりづらそうに頭を掻く。その表情は、照れているようにも見えた。
「分かった、信じる。確かにおまえは哲学的ゾンビってやつなのかもしんねぇけど、少なくとも今は自分の意思があるってことを、俺は認める」
「本当ですか? ありがとうございます」
「だからおまえも、これから俺が言うこと、信じてくれるか?」
彼の手が、頬に残っていた私の涙を拭う。真っ直ぐ見つめてくる瞳は力強くて、この上ないほどの意思を感じさせた。
「俺は、おまえが好きだ。先輩後輩じゃなく、一人の女として。俺と一緒にいる時、すごく嬉しそうでいてくれるおまえの笑顔が何より好きなんだ。俺自身の意思で」
どうしよう。せっかく止まったのに、また涙が出てきそうだ。この人はいつも、私の心を動かす。途切れる意識のせいで自分の存在が不確かな私に、何より「生きている」ことを実感させてくれる。
「信じます。私も、先輩が好きです。大好きです」
彼が首を縦に振る。頬に添えられていた手が後頭部に回されて、抱き寄せられた。
「おまえの意思、確かに受け取ったよ」
嬉しい。彼が、こんな私を受け入れてくれて。私を思ってくれて。彼が肯定してくれるならきっと、私は私を信じられる。もう、意識が途切れる瞬間を恐れる必要なんてない。彼が哲学的ゾンビかもしれないなんて疑念も吹っ飛ぶくらい、彼の言葉は私にとってはとても心強いんだ。
彼と抱き締め合い、彼のぬくもりを感じながら、私はまた涙を流した。
それから、私の意識が不自然に途切れることはなくなった。以前の私とは少し変わったと周りから言われることもあるけど、そんなのどうでもいい。いつも自分の意思で行動できている今の私は、最高に幸せだ。
開いたノートを前にして、隣へ目線を向ける。そこには参考書の上に突っ伏して、寝息を立てる彼がいた。それに苦笑して、短い髪を指で掬う。彼がこうして隣にいてくれる限り、私は哲学的ゾンビに逆戻りすることはないんだろう。私がああなった原因は結局わからないけど、そんなのは些末なことだ。
彼のまぶたに唇を落とす。私の世界に光を取り戻してくれた彼への感謝と愛しさに、口元を緩めた。
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update 2015/11/4