心配な二人
堀遊は不安だった。近いうちに戦が起きるかもしれないと夫の政行に言われて以来、気が気ではないのだ。もちろんそれは彼を失う可能性への恐怖によるものだが、彼女の気持ちを落ち込ませているのはそれだけではなかった。
「私って、嫌な女だったんだなぁ」
部屋の壁にもたれかかり、溜息を零す。政行の話を聞いた時に覚えた感情が、彼女の心の奥に沈み込んでいた。政行に情報をもたらした野崎梅太郎には危機が及ばないと告げられた瞬間、遊は安心すると同時に嫉妬したのだ。愛する男性を失うことを心配しなくていい、友人の佐倉千代に。男として長いあいだ生きてきた遊にとって、千代は幼い頃から自分が女だと知る数少ない友人だ。その彼女に対して、こんな気持ちを抱くなんて思いもしなかった。こんな感情なんて、知らないでいられればよかったのに。
「あー、やだなぁ」
結婚初夜に、政行から言われたことを思い返す。彼は遊を女として意識した上で、綺麗だと言ってくれた。その時はあくまで外見上の話だったが、それなりの時間を共に過ごした今も、政行は当初と変わらない愛情と熱情を向けてくれる。そんな彼に、こんな自分を知られたくない。醜い女だと思われて、失望されたくない。そう思う一方で、逆に知られてしまったほうがいいとも遊は考えていた。もし戦になったとしても、自分がひどい女だと彼が分かっていれば、戦場で余計なことを考えずに済む。何の未練もなく戦える。
だが彼に知られたところで、そう上手くいくだろうか。この家に来てからいつも感じていることだが、彼は優しい人間だ。遊の心情を知っても、赦して受け入れてくれるかもしれない。嫌わないでいてくれるかもしれない。もしそうなったら嬉しいが、その愛が戦場では足かせになりかねない。
そこまで考えて、遊は両手で自分の頬を何度も叩いた。政行だっていつ何が起こるか分からない状態に疲れているだろうに、彼を支えるべき自分がこんな状態ではいけない。傍らの薙刀とたすきを手に取り、部屋を出て廊下を歩き始めた。草履を履いて、縁側から庭に出る。そこに用意してある巻藁を目の前に一つ置き、たすきを掛けると、薙刀を中段に構えた。深く呼吸をして、巻藁を見据える。
「はぁっ!」
巻藁を勢いよく突く。すぐに薙刀を抜き、今度は下段に構えて下部を斬りつける。藁に切れ目が入ったのを見ながら、薙刀を上段から振り下ろした。何度も構え方を変えて斬ったり突いたりする度に、藁が切れ穴も開き、巻藁が見るも無残な状態になっていく。それでも、遊には表面の藁を傷つけることしかできない。政行が見せてくれた手本のように、中の竹ごと綺麗に斬るなんて夢のまた夢だ。護身のためであればこの程度でも構わないだろうが、遊は満足できなかった。心も身体も、もっと強くなりたい。
「お嬢ちゃん? お一人でお稽古なんて珍しいですね」
縁側を見ると、女中がひとり正座している。
「佐倉さまがお見えですよ」
「……千代ちゃんが?」
遊が息を整えながら礼を告げると、女中は一礼して去っていった。何度か呼吸を繰り返して落ち着いた頃に、庭を歩いて玄関に出る。遊に気づいた千代が軽く頭を下げた。
「こんにちは、遊さん。遊びに来ちゃいました。すごい汗ですね」
「ちょっと、薙刀の稽古をしてて」
「そういえば、この間おっしゃってましたね。遊さんもだんだん武家の女性になっていってて、何かかっこいいなぁ」
笑顔の千代に、微かな笑みを返す。さっきまで考えていたことを思うと、少し気まずい。
「遊さん、どうしたんですか? 何だか元気ありませんけど」
「うん、ちょっとね」
千代を相手に、ごまかすことなんてできない。長い付き合いで、充分に承知していることだ。
「話、聞いてくれる?」
「もちろんですよ! いくらでも話してください」
両手を握り締める千代に「ありがとう。でも先に片付けなきゃ」と告げ、庭に戻る。巻藁を庭の端に追いやって、たすきをほどくと薙刀を手にした。玄関に引き返し、待っていた千代と共に中へ入る。遊の部屋に足を踏み入れ、向き合った状態で千代を先に座らせた。遊は薙刀を部屋の隅に置き、千代の前に腰を下ろす。
「千代ちゃん。今から私が言うことで、嫌だと思うことがあったらすぐに言ってね」
「そんなことないと思いますけど、分かりました」
微笑む千代に、遊が背筋を伸ばした。深く息を吸い込み、千代の目を見つめる。
「確実じゃないけど、もしかしたら近いうちに、戦が起きるかもしれない」
「……えっ?」
千代の表情が陰った。遊は慌てながら、
「あっあのね、もしそうなっても野崎は大丈夫だって。今回のことは武家の間での問題なんだけど、野崎は武家じゃないから」
「そう、ですか」
千代が安心したように息を吐く。だが、彼女は浮かない顔のままだ。
「でも、堀さんは関係あるんですよね。もし戦が起きたら、堀さんも」
「そうなるね。実際のとこはまだ、どうなるかは分かんないみたいだけど。まぁでもそれは、武家に嫁ぐって時点で分かってはいたことだよ。いいことじゃないけど、仕方がないとは思う。そこは私自身が覚悟を決めないといけないことだし、それより」
遊がまた、千代を見据える。千代も真剣な表情で、遊を真っ直ぐ見た。
「野崎は大丈夫って旦那さんが言った時さ、私、千代ちゃんが羨ましくなったんだ。大好きな人がいなくなっちゃうかもって心配しなくていいなんてって」
本当は、羨ましいなんてものではない。自分の中に芽生えた感情は、そんなにかわいいものじゃない。だが、自分の汚い部分をさらけ出すのが怖い。
「遊さん」
千代の手が伸びてくる。髪を軽く撫でられ、微笑まれた。
「そんなこと言ったら、私なんてなんど遊さんを羨んだか分かりませんよ。御所さんの一存で男性として生活するはめになったことは大変でしたけど、それでも遊さんは公家という恵まれた立場で、いつも楽しそうで、いいなぁって思ってました。そのうえ結婚生活までも恵まれているみたいだし、私なんてとても敵わないなって」
小さな手が、遊の髪を撫で続ける。
「こんなことを考えている私にも、遊さんは対等な友人みたいに接してくださるのがすごく嬉しいです。ちゃんとこうして、あまりよくないことでも隠さず話してくださることも」
千代の手が下りてきて、遊の手を握った。
「だから、遊さんには笑っていてほしいんです。楽しそうな遊さんを見ていると、私も幸せな気分になります。遊さんにつらいことがあって、それを誰かに話すことで少しでも楽になれるなら、いくらでも私に話してください」
遊が千代の手を握り返す。千代が自分をどう見ていたのか、いま初めて聞いた。そのように遊に対して思うところがあっても、ずっとよき友人として彼女が傍にいてくれたことが、ただ嬉しい。
「ありがとう千代ちゃん。何か元気でたよ」
「それはよかったです。でもやっぱり、何ごともないのが一番いいですよね」
「そうだね」
互いに苦笑を浮かべる。握り合った手はそのままに、外出していた政行が帰ってくるまで語り合っていた。
数日ほど経過したある日、女中が庭にいた遊を呼んだ。
「また佐倉さまがいらっしゃってますよ。あともうお一方、御子柴さまとおっしゃる男性が」
「御子柴!? 嘘っ!」
遊が切り裂かれた巻藁を片付け、玄関へ走る。そこには確かに、狩衣を着た男が千代と共に立っていた。
「鹿島、聞こえてたぞ。何が『嘘っ!』なんだよ」
「ごめんごめん。今までぜんぜん音沙汰なかったからびっくりしちゃって。御子柴ひっさしぶりー!」
遊が男――御子柴実琴の肩を叩く。実琴はそんな彼女を呆れたように見た。
「何だよ。戦が起きそうとか佐倉が言うから、たいそう落ち込んでんのかと思ってたのに、むちゃくちゃ元気じゃねぇか」
「心配した? ごめんね」
遊が笑い声を立てる。家の奥から、足音が近づいてきた。
「何の騒ぎだ」 「あっ、おまえ様」
現れた政行が、千代と実琴へ目を向ける。
「最近よく来るな、佐倉」
「えへへ、また来ちゃいました」
「そっちは誰だ」
「えっ、あの」
実琴が固まった。人見知りなのは相変わらずのようだ。
「私の親友ですよ。まぁ、男のふりをしてる時の、ですけどね」
「ちょっと待て。その言い方じゃまるで、おまえが女だって分かってからは違うみてぇじゃねぇか。俺は性別なんて関係なく親友だって思ってんのに」
僅かに涙ぐむ実琴に、遊が笑う。
「やだなぁ、冗談だよ。じゃ、改めて紹介するね」
遊が手で政行を示した。
「この人が私の旦那さんだよ」
「堀政行だ……えっと」
「初めまして、御子柴実琴って言います」
実琴が頭を下げる。
「それにしても御子柴、今日はどうしたの?」
「どうって、おまえの様子を見に来たんだよ。おまえが結婚してから気になってはいたんだけど、男ひとりで会いに来ても変に思われるだろ」
「そうかな。私がずっと男として生活してたのはみんな知ってるんだから、男友達がいても別におかしいと思わないでしょ。ねぇ、おまえ様」
「むしろいないほうが、おまえの交友関係を心配したくなるな」
政行が頷いた。
「ほらー、旦那さんもこう言ってるし」
「いやでも、やっぱちょっと遠慮するよな。二人でいるのを邪魔しても悪いし」
「大丈夫だよ。今なんて薙刀の稽古してただけだから」
「薙刀!? 何でそんなもん」
「一応、護身用? に」
千代が笑顔で「かっこいいですよねー」と実琴に話しかける。
「もしかして千代ちゃん、今日は御子柴の付き添い?」
「そうです。たまたま御子柴さんが鹿島の家にいらっしゃるご用があったので、どうせならと。途中で野崎さんとお会いした時に、兄妹みたいって言われちゃいました」
「歳は二人とも同じなのにね」
だが、遊とほぼ同じ背丈である実琴と小柄な千代の取り合わせは、確かにそう見える。
「佐倉は相変わらず野崎、野崎だよな。さっきも分かりやすいったらなかったぜ」
「それでも、野崎は気付かないんだよね」
「そうなんだよなぁ。あいつの鈍さもすげぇな」
「あっ、そういえば遊さん。野崎さんから聞いたんですけど、さいきん若松さんの家に結月さんがよく出入りしてるらしいですよ」
「えっ、結月って子が一人で? 若松家に直接!?」
遊と政行が揃って目を見開いた。
「その二人、できてんのか?」
「いえ、若松さんが作った歌を見てもらってるらしいです。いい歌ができたら結月さんに詠んでもらうんだって張り切ってるみたいなんですけど、まだ一度も実現していないそうで」
「若松、くんもがんばるね」
「おまえまだその呼びかた定着してねぇのか」
呆れる政行に、遊が苦笑を浮かべる。
「いやぁ、少年って印象がなかなか頭から抜けなくて」
「そうだよなぁ。瀬尾に対しても、恋愛感情なのか何なのかよく分かんねぇ感じだし」
「あれっ、御子柴もあの二人が一緒にいるの見たことあるの?」
「ああ。今度の歌会の連絡で、若松んとこ行った時に。何つーか、飼い主に懐く犬みてぇだよな」
「分かる分かる」
遊と千代が何度も首を縦に振った。
「まぁ何にせよ、おまえ元気そうで安心したわ」
「御子柴も変わりないみたいで何よりだよ。久々に会えてよかった。来てくれてありがとね」
「また機会があったら囲碁でもやろうぜ。野崎も付きあってくれるけど、おまえと打てねぇのつまんねぇんだよな」
「いいね。私も、また御子柴と囲碁したいな。何なら今やってく? 碁盤あるし」
「えっ、でも」
実琴が政行を見る。
「別に、やってけばいいじゃねぇか」
「いいんすか?」
「ああ。俺は道場で剣の鍛錬でもしてるから」
「ほらほら、御子柴あがって。千代ちゃんも」
「はい。お邪魔しまーす」
完全に家に上がる気の千代に、実琴が肩をすくめた。
「じゃあ、俺も上がらせてもらうか」
「うん、どうぞどうぞ」
四人で家の中に入っていく。途中で政行だけ道場に向かい、残る三人が遊の部屋に入り碁盤と碁石を用意し囲碁を打ち始めた。
「私ここもらうね」
「あっ、ずりぃ! それ卑怯だぞ」
「なに言ってんの。これは勝負だよ? こんな好機を逃すわけないじゃん」
向かい合う遊と実琴の横で、千代が笑う。遊が嫁ぐ前はよく繰り広げられた光景だ。懐かしさに胸を熱くしながら、遊が二人を見た。今後のことを考えると心配だが、それでも自分は一人ではない。素晴らしい友人たちがいる。それを改めて実感しながら、遊は碁石を盤上に打った。
「最近、一人で稽古することが多いな」
庭で巻藁と向き合う遊に、政行が声をかける。
「少し前までは、これから稽古するから付き合ってくれってうるさかったのに、近ごろは黙って稽古はじめてるし」
「おまえ様の声を聞かないとやる気が、なんて言ってられる状況じゃなくなってきたかなって思いまして」
遊が手元の薙刀へ目を向けた。
「私にも分かりますよ。お館さまも難しい表情ばかりしていますし、みんなが気を張ってるんですよね。どんどん、やばい方向に行ってるんでしょう」
「まぁな。いがみ合ってるのが三田家と坂井家っていうんだが、特に酒席の主催だった三田側の怒りが尋常じゃなくて」
「もし戦になったら、三田側につくんですか?」
「父上の意向にもよるが、多分そうなるだろうな。三田にはいろいろと世話になってるし。でも、坂井側につくとこも多少でてくるとは思う。坂井と懇意にしてるところもあるからな」
「そうですか」
遊の目が、巻藁のほうへ動く。やはり全体的に藁が切れているものの、真っ二つに斬るなどできない。
「おまえ様。私、強くなってますか?」
「ああ。構えすらまともにできねぇ状態から、よくここまで上達したもんだ」
「立派な武家の女に、なれてるでしょうか」
「さぁな。でも」
縁側にいた政行が、庭に下りてくる。
「俺にとっては、最高の妻だよ」
遊が目を丸くした。しかしすぐに口角を上げ、微笑む。
「この上ない褒め言葉ですよ、それ」
薙刀を地面に置き、遊が政行に抱きついた。政行もそれを受け止め、彼女の身体を抱きしめる。
「おまえ様、裸足で痛くないですか?」
「平気だ」
背中に回された腕に、遊の表情がまた緩んだ。
「おまえ様って、結構たくましいですよね。やっぱり鍛え方が違うのかな。頼もしくてかっこよくて、私すきです」
「そうかよ」
どうして彼は、武家の生まれなのだろうか。どうして武家内で、今のような憎み合いが生じてしまったのだろうか。そんなことを何度も考えるが、考えたところで事実は変わらない。ただそれを、受け入れるしかない。
「遊。もしものことがあっても、俺はちゃんと帰ってくる。おまえの元に戻るから」
「……本当ですか?」
「ああ。何があってもおまえを守るって決めたからな」
遊の腕に力がこもる。
「約束ですよ」
「分かった。ぜったい守るから」
絶対などないと、遊にも分かっている。それでも、その言葉に縋りたいと思った。彼との約束という心の拠りどころができれば、いざという時にも耐えられる気がしたのだ。
夜になり、身体を重ねた後、遊と政行は抱き合って布団の中にいた。いつまでこうして、互いの熱を分け合うことができるのだろうか。
「おまえ様」
遊が僅かに身体を動かし、政行に顔を近づける。政行は黙って口づけを受け入れ、彼女の背中を撫でた。こうしていると、世界に自分たち二人しかいないような錯覚に陥る。ずっとこうしていたいと思いながらも、遊は唇を離して政行を見た。
「口づけは好きなんですけど、顔が見えないのが残念ですよね」
「しながら目を開ければいいだろ。俺けっこう開けてるけど」
「えっ、そうなんですか!? 私、変な顔してませんか?」
「いや、全然。最初は緊張してる様子だったけど、最近は嬉しそうな顔してることが多くてかわいいぞ」
「えええええ、か、かわ」
遊が両手で顔を押さえる。口づけしている間の表情など考えたことがなかったが、こうして言われると恥ずかしい。
「おい、顔かくすな」
「だ、だって、そんな、ずっと見られてたなんて」
その上、彼との口づけを喜んでいるのが顔に出ていたという事実に、遊は消え入りたい気分になった。
「すげぇ真っ赤。おまえでも恥ずかしがることあるんだな」
「それくらいありますよ!」
赤い顔で、遊が政行から目を外す。その瞬間、少し遠くから大きな音が聞こえた。
「何だ!?」
二人で起き上がり、障子を開ける。外を見ると、一軒の家が炎に包まれていた。
「あれは」
「坂井の家だ。三田の奴、とうとうやりやがったか」
政行が閨を出る。遊も続いて廊下に出ると、家臣や女中たちが慌ただしく走り回っていた。
「誰か様子を見てこい!」
「俺が坂井のとこを見てくる。誰か三田のほうも!」
「じゃあ三田のほうは俺が」
何人かの家臣がそんな会話をしている。家の奥から出てきた初老の堀家当主に、家の者たちの視線が集まった。
「お館さま、どうしましょうか!? 一先ず様子を見てこようとは思いますが」
「ああ、それが先決だな。情報がないことには何とも判断できん」
当主が遊と政行を見る。
「おまえ達はとりあえず、閨に戻れ。寝る気にはなれないかもしれないが、まだ私たちが何かする段階じゃない」
遊が政行へ目を向けた。彼も遊を見て、彼女の肩を抱く。
「そうするか。下手に動くのも何だし」
当主へ一礼すると、二人で閨に戻っていく。遊の心臓はその間、鼓動の速さを増すばかりだった。とうとう、幕が上がったのだ。
遊の肩を抱く力が強まる。政行もまた動揺していることを感じながら、遊は彼のほうへ身体を寄せた。
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update 2015/9/21