膨大な愛情
瀬尾家の者たちが、鹿島の家を後にする。それを見届けてから、堀遊は家の廊下を佐倉千代と並んで歩いていた。
「あっ、鹿島さん」
聞こえた声に振り向くと、若松博隆が立っている。
「若松少年、久しぶりだね」
「お久しぶりです。お元気そうですね」
「そっちこそ」
「それはいいんですけど、その『若松少年』って呼び方、そろそろやめてもらえませんか? 俺ももう十七ですし」
「ごめんごめん。つい癖で」
遊が笑顔を見せ、博隆を見上げた。
「ところで君さ、瀬尾さんとこの娘さんとずいぶん仲良くなったみたいだね」
「見てたんですか? うーんでも、仲良く、なれたんですかね。そうだといいですけど」
博隆が照れくさそうに頬を掻いた。
「私は聞いてないけど、あの子の歌ってやっぱりすごいの?」
「はい! 声がとても綺麗で、抑揚とかも聴いてて気持ちいいんですよ。いつまでも聴いていたいくらいです」
目を閉じて博隆がそう口にする。遊は先ほど見た瀬尾結月のことを思い返した。
「結構、思ったことずばずば言う子みたいだね。君が作った歌、詠んでもらえなかったんでしょ?」
「はい。確かに俺は歌が上手くないって言われること多いですけど、自分なりに勉強して、少しは上達したつもりだったんです。でも、これを声に出して詠むのは勘弁してくれって言われてしまって」
博隆が肩を落とす。
「瀬尾さんって、自分は教養のない庶民だって言ってましたけど、絶対そんなことないと思うんです。だって文字が読めるし、歌の良し悪しも分かるみたいですし。少なくとも瀬尾さんに聴かせてもらった歌は、作者の有名無名は関係なく、どれもいい歌だったんですよ。瀬尾さんの詠み方がそれを何倍にも引き立ててるのももちろんですけど」
「確かに、文字を読める子が無教養ってことはないよね」
「そうですよね。特に男性が書く歌って、大陸から来た文字で書いてあるじゃないですか。私は遊さんから教えてもらったかな文字は分かるんですけど、大陸の文字は数が多すぎてぜんぜん分からないです」
千代が頷いた。三人で腕を組んだり、額を指で押さえたりして考え込む。瀬尾結月という女性は謎が多い。
「もっと、瀬尾さんのことを知りたいなぁ」
博隆が呟く。千代が目を輝かせ、彼に顔を寄せた。
「もしかしてって思ってましたけど、やっぱり若松さん、瀬尾さんのこと好きなんですか!?」
「えっ!? そっその、確かに瀬尾さんのことは気になりますけど、俺は」
慌て始めた博隆に、遊が苦笑する。博隆と最後に会ってからそれなりの時間が経つが、彼は変わっていない。自分より階級が下である上に歳も変わらない千代にすら敬語を使うのも、相変わらずのようだ。
「そういえば若松しょ、くん。時間は大丈夫?」
「あっ、そうだ帰らないと。すっかり話しこんじゃいましたね」
「また来てくださいね、若松さん」
「はい! ここの家に来ると、野崎さんに会えることも多いですし」
遊が首を傾げた。
「野崎がどうかしたの?」
「えっ、鹿島さん知らないんですか!? 野崎さん、鹿島家に出入りすること多いんですよ」
「それは知ってるよ。それが君にどう関係するのかって訊いてるんだけど」
「だって、野崎さんかっこいいじゃいですか!」
「野崎が!?」
遊の脳裏に、野崎梅太郎の姿が浮かぶ。
「何で? 絵が上手いから?」
「それもあるけど、背が高いですし」
「いや、それは」
確かに梅太郎は長身だが、ただ大きいだけではないか。
「分かります、若松さん」
遊の横で、千代が何度も頷く。
「すごく頼りがいがありますし、一見とっつきにくそうですけど、実は優しいですよね」
「そうなんですよ! 何かと俺のことも気にかけてくださって」
博隆と結月を会わせたくないという、梅太郎の言葉を遊は思い出した。確かに彼はおせっかいではある。だが、博隆がそれを煩わしく思っていないのならば、それでいいのかもしれない。
梅太郎の話を始めた二人を前に、遊が息を吐いた。
「と、いうことがありまして」
堀家に戻った遊は、鹿島家での出来事を夫の政行に話した。政行が肩をすくめる
「やっぱり、野崎が心配しすぎただけだったか」
「でしたね。若松、くんはだいぶ結月って子に惚れてるみたいです」
「……おまえ、どんだけ『若松少年』って呼び方がしみついてるんだ」
政行が訝しげな目を向けてきた。遊が頬を掻く。
「いやー、何か彼は少年! って印象なんですよね。一歳しか違わないし、彼もいい大人だって頭では分かってるんですけど」
「野崎の過保護っぷりといい、そんなに若松って奴は頼りないのか?」
「そういうんじゃなくて、純朴な感じなんですよ。本当に、いつまでも変わらず心は少年のままって感じに見えるというか」
「見えるだけだろ?」
「それは、まぁ、そうなんですけど」
眉を下げながら、遊が微笑んだ。
「それはそうと、親父さんやお袋さんは元気だったか?」
「はい、それはもう。おもうさんは今すぐ戻って来てほしいって泣き出して、ちょっとうっとうしかったですけど」
何度も考えたことだが、彼女の中で鹿島家当主はどういう位置づけなのだろうか。
「何にせよ、おまえが無事でよかった」
「心配しました?」
「当たり前だ」
政行が溜息をこぼした。
「さっき、野崎が嫌な情報を持ってきたしな」
「野崎が? どんなことですか?」
遊が政行へ顔を寄せる。
「少し前、俺が武家同士の酒席に出ただろ?」
「ああ、私が曲者を撃退した日ですね!」
「その話は聞き飽きた。まぁその時にだな、出席していなかった家があるんだ」
「そうなんですか? 武家はみんな出ているのかと思ってました」
遊が首を傾げた。政行が表情を曇らせる。
「あの酒席の主催と、そりが合わないとこが欠席したんだ。前々から仲が悪いのは分かってたけど、たまに家の者同士が会うとにらみ合う程度で、それまで実害はなかったんだ。でも酒席の時そいつらが来ないのを見て、せっかく歩み寄ろうとしたのにって主催側が怒っちまってな。それから今までよりも仲の悪さが増してたんだけど、もしかしたら戦を始めるかもしれねぇんだ」
遊の顔から、血の気が引く。
「戦、ですか?」
「ああ。そうなったら、その両家同士の話だけじゃ済まねぇ。恐らく武家ぜんぶ、どっちかの家についてぶつかり合うことになるだろう。武家内での対立なんてよくねぇし、日和見もしてらんねぇからな。何となくそんな予感はしてたけど、野崎から両家とも武器を大量に集めてるって聞いて、本気なんだなって」
「そ、そうなったら、おまえ様も戦うんですか?」
「そうに決まってるだろ」
真っ青なまま、遊が身体を震わせる。彼女の頭に、梅太郎のことを話す千代の姿がよぎった。
「野崎も、戦うことになるんですかね」
「いや、野崎は『武家』じゃなくて一介の『武士』だから、特に関係ねぇ。佐倉のことが心配なんだろうが、そっちは気にしなくていい。今回のことも、たまたま知ったことだって」
「そう、ですか。よかった」
千代は、愛する人を失う恐怖を味わわなくていい。それに安心したものの、遊の心は晴れなかった。
「そんな些細なことでも、戦になったりするんですね」
「些細なこと、な。関係ない人間にとってはそうだけど、外野が思ってるより両家の溝は深いかもしんねぇからな。しょうじき俺も、何でそんなに仲わるいのかは知らねぇんだよ」
一体、事が起きるとしたらいつになるのだろうか。
「戦になるかもって思ってたなら、何で言ってくれなかったんですか? そんな素振り、全くなかったじゃないですか」
「勘みたいなもんだし、確実なもんじゃねぇからずっと様子見してた。でも、さすがにやばくなってきたな。本当に、そうなるかもしんねぇ」
遊が拳を握る。果たして自分はいつまで、最愛の人を失うことに怯える必要があるのだろうか。
「おまえ様。私、実家でおたあさんから、孫はまだかって催促されちゃいました」
「お袋さんは相変わらずだな。それはいいけど、何で今それを」
「もし、もしもですよ。そんなことないと思いますけど、戦でおまえ様がこの世を儚んでしまったら、困るじゃないですか。お世継ぎのこととか」
「その時は弟が……いや、戦が始まれば弟も駆り出されることになるのか?」
「そういう話になってきたら、子どももそのうち授かるなんて、悠長なこと言ってられませんよね」
遊が政行の両肩を掴み、押し倒す。政行が彼女を見上げ、何度もまばたきした。
「どうした、遊」
「おまえ様。万が一のことがあっても大丈夫なように、ちゃんと子作りしましょう。夜だけじゃ、きっと足りませんよ。今からでも」
「待て、ちょっと落ち着け。今してるのは、可能性の話だ。今からそんなに思い詰めるんじゃねぇよ」
政行の手が、遊の頬に触れる。そのまま目元を拭われ、頭を撫でられた。
「だから、泣くな」
ずっと男として育てられ、貴族の男社会を生きてきた。性別を偽ることへの不安はあっても、自分から男との結婚を望んだことはなかった。だが今、目の前の夫を失えないと心の底から思っている。
遊が政行の胸に縋り付く。濡れていく着物に構うことなく、彼は遊を抱きしめて髪を撫で続けた。その感触や彼のぬくもりに、遊は身を委ねながら嗚咽する。ひとり寝を寂しがった時から、自分は何も変わっていない。何の覚悟もできていない。
「あ」
小さな声に、遊が顔を上げた。
「どうしたんですか?」
「そういや、遊を泣かせねぇって佐倉と約束してたんだった。早々に破っちまったな」
涙の滲んだ目で微笑み、遊が政行の髪を梳く。
「言わなきゃ分かりませんよ」
「それでいいのか? 友達なんだろ」
「友達だからこそ、余計な心配をかけたくないです」
政行の額に、遊が唇を落とした。目を丸くする彼に、遊が笑顔を見せる。
「ごめんなさい。ちゃんと腹を括れてなくて」
「別に、今すぐ括る必要もねぇよ。前より危ねぇ状況なのは確かだが、いがみ合ってる当事者たちが考え直すってことも、万に一つくらいはあるだろうし」
「でも、今回は何もなかったとしても、今後は分かりませんよね。五年後や十年後にでも、おまえ様が戦場へ行かないといけなくなるかもしれません。なので」
遊が深く呼吸をする。
「おまえ様が、ちゃんとここにいた証が欲しいんです。おまえ様がいなくなっても大丈夫なように」
政行の瞳を、遊が捉えた。
「抱いてください」
政行の腕が、遊の背中に回る。
「まだ昼間だぞ」
「時間なんて関係ありませんよ」
「誰か来たらどうする?」
「その時はその時ですよ」
遊の目に、情欲の色が混じった。それを見た政行は、彼女の身体を引き寄せ唇を重ねる。角度を変えて口づけを深めると、政行が身体の向きを反転させ、彼女に覆い被さる状態になった。唇を離し、互いを見つめ合う。
「おまえ様、愛しています」
政行が小さく笑った。
「俺のほうが惚れて、おまえを追いかけてたのにな」
「自分でもびっくりですよ。こんなに好きになるなんて思ってませんでした」
また唇を寄せ合い、微笑み合う。
「俺も、愛してる」
政行の手が、遊の胸元に差し入れられる。遊は彼に身を任せながら、彼の首元に抱き付いた。
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update 2015/9/17