三様な恋情
朝から降り続く雨は、昼を過ぎても全く止む気配がない。外の薄暗さにつられて気分が沈みそうになるそんな日に、遊は堀家の敷地内にある道場で、床に座り込んで肩で息をしていた。そんな彼女を、夫の政行が見下ろす。
「今日はこれくらいにするか」
「は、い」
呼吸を整えながら頷く遊の傍に、政行が腰を下ろす。
「遊。おまえさ、型は完璧だし、そろそろ一人で鍛錬しても」
「……えっ? もう教えてくれないんですか?」
「これ以上おまえに教えることなんてねぇよ。何が不安なんだ」
「不安、っていうか」
大きく息を吐いて、遊が天井を見上げた。
「おまえ様の怒鳴り声が聞こえないと、気持ちが締まらないというか、集中できなくて」
「……俺が留守の時に曲者に食ってかかったのは何だったんだ」
「そこはほら、非常事態だったんで」
明るい笑顔を見せる遊に、政行が肩をすくめる。
「まぁ、いざって時にちゃんと動けるなら、別に練習くらいは見てもいいが」
「えっ、本当ですか? やったー! さすがおまえ様!」
「何がさすがなんだ」
呆れ顔の政行が手を差し伸べる。遊がそれを掴むと、彼女の身体を支えながら立ち上がらせた。
「ありがとうございます」
「もう歩けるか」
「はい、大丈夫です。部屋に戻りましょう」
頷いて歩き出した政行に、遊も従う。彼が引き戸を開けると、黒い瞳とかち合った。
「うわっ!」
「こんにちは、堀さん」
後ずさった政行が正面を見る。そこには、野崎梅太郎が無表情で立っていた。
「の、野崎!? 何でここに」
「鹿島と一緒に道場にいるって女中から聞いたんで」
梅太郎の笠から水がしたたる。彼は一体、いつからここに立っていたのだろうか。
「何の用だ」
「ちょっとした相談で」
「相談? おまえが俺に?」
首を縦に振った梅太郎に、政行が訝しげな目を向けた。
「頼みます。あと、できれば鹿島の意見も聞けたら助かる」
「えっ、私も?」
遊が自身を指さす。彼女と政行は顔を見合わせ、また梅太郎のほうを向いた。
「まぁ、話を聞くだけなら」
梅太郎が安心したような表情を見せる。
「ありがとうございます。鹿島もすまない」
「こんなとこで頭さげんな。背中が濡れるぞ」
お辞儀しかけた梅太郎を制し、彼の顔を上げさせる。
「とりあえず、家の中に入るか。風邪ひいてもいけねぇし」
政行の言葉に従い、遊と梅太郎も屋敷へ歩いていった。客間に梅太郎を座らせた政行は、彼の向かいに腰を下ろし、遊を見上げながら自分の隣を叩く。彼女も示された場所に正座すると、梅太郎と向き合った。
「で、相談って何だ」
「知り合いのことなんですが、俺だけではどう対応していいか分からなくて。鹿島は知ってるだろう、若松博隆」
「右大臣の長男でしょ? あの子がどうかしたの?」
「いや、それが」
梅太郎が眉間にしわを寄せる。
「若松が少し前に道を歩いていたら、たまたま歌を詠む女の声が聞こえたらしいんです。たいそう綺麗なその声に惚れたという若松から、声の主にぜひ会いたいけど、家の場所を覚えてないと言われました。誰か心当たりはないかと」
政行と遊が同時に目を丸くした。
「何だ、つまり、その女を探すのを手伝えってことか?」
「違うんです。若松の話を聞いていたら、女の正体は分かりました。瀬尾家の娘、瀬尾結月です」
「瀬尾?」
政行が顔をしかめる。
「あっ、会ったことあるかも。瀬尾って反物屋さんでしょ?」
「ああ。主に貴族を相手に商売してるところなんで、堀さんは会ったことないかもしれませんね。特に娘は神出鬼没で、めったに姿を見せないけど、たまに現れて歌を口ずさむんです。歌自体は自作じゃなく有名なものなんですが、あまりに素晴らしい声だから、自分の歌も詠んでほしいという歌人が後を絶たなくて」
「私もその噂は知ってる。実際に歌を聴いたことはないんだけど」
つり上げた眉の端を小刻みに動かしながら、政行が額を押さえた。
「で、そこまで分かってて何を相談しようっていうんだ」
「確かに。相手が判明してるなら、二人が会えるようにできるんじゃないの? そうじゃなくても、その結月って子が若松少年と顔を合わせることも今後ありそうだし」
「そうなると困るんだ」
政行と遊が、また同時に首をひねった。
「何で?」
「瀬尾はな、とにかく性格が残念なんだ。がさつだし空気は読めないし、繊細な若松があいつと付き合ったらきっと大変なことに」
「そんなの、実際に会ってみないと分からねぇだろ。意外と気が合うかもしんねぇし」
「そうだよ。会う前から駄目だって決めつけるのよくないって」
二人の返答に、梅太郎がうなだれた。
「やっぱりそうなのか。佐倉にも、いちど会わせたほうがいいって言われたしな」
「千代ちゃんにも訊いたの?」
「ああ。鹿島の家に寄ったついでに」
「若松とやらに知られたくないなら、あまり周りに言わないほうがよかったんじゃねぇのか? どこからそいつの耳に入るか分かんねぇぞ」
梅太郎が目を見開く。真っ青な顔の彼が、畳の上に突っ伏した。
「確かにそうだ! 俺のしていることは若松のためになるどころか、その逆だったのか!」
「……だから、何で会わないほうがいいって前提の物言いなの?」
不審そうな表情の遊と政行には目もくれず、身体を起こした梅太郎がゆっくりと立ち上がる。
「すみません、堀さん。鹿島も悪かった。俺が自分の考えにこだわりすぎてたのがよく分かりました」
「そ、そうか。もう帰るのか?」
「はい。お邪魔しました」
置いていた笠と刀を手に取り、梅太郎が客間を出る。後ろから政行と遊もついて歩き、玄関に辿り着いた。梅太郎が二人のほうを振り返る。
「まだ雨も降ってるし、見送りはここまででいいです。では、また」
「気を付けて帰れよ」
梅太郎はお辞儀をすると、笠を被り扉の外へ出て行った。誰もいない玄関を見ながら、政行が口を開く。
「いつだってあれこれ言うのは本人たちじゃなくて、周りなんだよな。俺たちの結婚もそうだっただろ」
「そうですね。鹿島でも、私よりおもうさんのほうが大変なことになってましたし」
「父上にもおまえの親父さんにも最初はいい顔されなくて、なかなか話が進まなかったけど、いざ結婚したら案外なんとかなってるしな。野崎が言ってた若松と瀬尾とやらも、実際に会ってみればそんなもんなんじゃねぇかと思うけど」
「きっとそうですよ。野崎は心配しすぎなんですって」
久しぶりに顔を見せてほしいという父からの文を受け、遊が実家の鹿島家へ足を踏み入れる。思いのほか堀家の居心地がいいのもあり、鹿島家に足を踏み入れるのは結婚してから初めてのことだ。迎えてくれた女房が、一人で立っている遊に目を見張った。
「姫、なぜお一人で」
「いやー、おもうさんが旦那さんには会いたくなさそうだったからね。旦那さんには女のひとり旅なんてって随分と心配されたけど、旅っていうほど大げさな距離でもないし」
明るく笑う遊に、女房も顔をほころばせる。
「姫は相変わらずですねぇ。お元気そうで安心しました。ああ、そうそう。今ちょうどおもしろいことになってるんですよ」
「おもしろいこと?」
遊が首を傾げる。楽しげな女房に手招きされるがままに、彼女の後ろを歩いていった。
「ほら、あそこです」
女房の示した先には、嬉しそうな笑顔の男性と不思議そうな表情の女性がいた。
「あれ、若松少年? 一緒にいるのって」
「瀬尾さんのお嬢さんですよ」
「ああ、結月って子か」
遊が納得したように呟き、二人のほうを見つめる。
「どうして若松少年がこの家に?」
「御所さんにご用があっていらっしゃったんですけど、その時にたまたま瀬尾さんがいらしていたんです。結月さんもご一緒なのはいつ以来でしたっけね」
「だいぶ久しぶりだよね。私も、話したことあるかどうか覚えてないくらいだし」
視線の先では、男性――博隆が向かいにいる結月の目を見つめ、満面の笑みを浮かべている。
「俺、もっと瀬尾さんの歌を聴きたいです」
「そう言われても、さっき詠んだので知ってるの全部なんだよな。私みたいな庶民が知ってる歌なんてそんな多くねぇし、自分で作れるだけの教養ってもんがあるわけでも」
「じゃ、じゃあ、俺が歌を作ったら詠んでくれますか?」
結月が伏し目がちに博隆を見た。
「おまえ、何でそこまで」
「だって、あんなに綺麗な声で詠う人、他に知りませんし。庶民だとか、学がないなんて自分を卑下するのはやめてください。瀬尾さんの歌は素晴らしい才能ですよ」
「大体さ、私もついいつもみたいに話しちまってるけど、ふつう敬語つかうほう逆だよな」
「えっ、別にいいですよ。瀬尾さんのほうが年上ですよね?」
「まぁ一歳差だけどな」
二人の会話を聞きながら、遊が両肩を上げた。やはり、梅太郎が無駄に気を揉みすぎだったのだ。
「あのお二人、いい雰囲気ですよね」
いつの間にか、遊の隣で佐倉千代も博隆と結月を見ていた。
「野崎さんが心配されてましたけど、私ぜったいうまくいくはずだと思って、おせっかいですけど若松さんに結月さんのことを話したんです。そうしたら、ぜひ結月さんに会いたい! っておっしゃって。だからもし、野崎さんの心配が現実になってたら私のせいだなってちょっとどきどきしてました」
「そうなんだ」
遊たちの前で、博隆が短冊を前に考え込んでいる。結月は呆れた様子ながらも、少し喜んでいるようにも見えた。
「さすがにあの結月って子も、自分に詠んでもらうためだけに歌を作ってくれるなんて初めてなんじゃないかな」
「でしょうね。私も結月さんが詠うのを聴いてたんですけど、本当にすごいですよ。いろは歌ひとつとっても、情景が目の前に浮かんでくるんです」
「へぇー、いいなー。歌うまいって羨ましい」
「そういえば遊さんは、歌を作ることはできても声に出して詠む時が」
「それは言わないで」
頭を抱えた遊に、千代が笑みをこぼす。小さく声を立てて笑った後、小さく呟いた。
「私もがんばらなきゃ」
千代が再び目を向けた先では、博隆が短冊に筆を走らせている。短冊を見せて数秒後、結月に「おまえこれひっでー歌だな!」と笑われて落ち込む博隆に苦笑する彼女へ、遊が優しく笑いかけた。
「きっと千代ちゃんも大丈夫だよ」
遊もまた博隆たちを見ながら、堀家で留守番している夫の姿を思い浮かべた。
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update 2015/8/11