彼女だったら
社会人になったエレンとパソコンのミカサ(二代目)の話です。
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仕事を終え、六畳一間のアパートに帰る。職場へは電車とバスを乗り継いで一時間ほどかかる場所だが、学生の頃から住んでいるこの場所から離れる気にはなれない。
玄関の扉を開けると同時に、生姜の匂いが漂ってきた。肉でも焼いているような音も聞こえる。
「お帰りなさい、エレン」
コンロの前に立っていたミカサが、こちらを振り返った。
「ああ、ただいま。今日は豚肉の生姜焼きか?」
「そう。もう少しでできるので、待ってて」
「分かった」
背広を脱いで、ハンガーに掛ける。ネクタイも解いて一緒に掛け、テーブルの傍に腰を下ろした。豚肉に夢中になっているミカサの背中を見て、一つ息を吐く。
こうして見ていると、このミカサもあの「ミカサ」と変わりない。かわいくて何でもできて、オレに従順で、肌も柔らかくて暖かい。なのにオレは、かつて「ミカサ」と過ごしていた時みたいな幸福感を得られないでいる。
「エレン、できた」
ミカサが盆を持ってくる。生姜焼きと白飯、味噌汁と箸が目の前に置かれた。
「ありがとな」
「これくらい構わない。エレンは私のマスターなので」
箸を取ろうとした手を止める。ミカサを見ても、不思議そうに見つめ返されるだけ。こんな表情も、「ミカサ」と同じだ。
「いただきます」
「どうぞ」
オレが箸を持って食べ始めると、ミカサはオレの様子を眺め出した。箸の動きを目で追ったり、豚肉を食うオレの口元を見たりしている。
「あまり見られてると食いづらいんだが」
「……ごめんなさい。エレンの好みに合っているのか、気になって」
「普通にうまいぞ」
「そう。なら、よかった」
ミカサは安心した表情になりながらも、まだオレの食事風景を見ている。何が楽しいんだ。
「ミカサ。お前さ、オレが何か食ってるの見てて、楽しいのか」
「楽しい」
頷いたミカサを横目に、味噌汁を飲む。ちょうどいい味の濃さだ。
「楽しいというのは、エレンと前の『私』が一緒に覚えたもの」
「ああ、そうだな」
生姜焼きを食い、白飯を口に掻き込む。そういえば「ミカサ」もこいつも、オレが食事しながらしゃべることを注意しないな。
「ねえ、エレン」
「何だ」
「エレンは私のこと、どう思ってる?」
思いがけない言葉に、箸を止める。ミカサの目は、愛の告白に対する返事を待ち構えているかのように真剣だ。
「何でそんなことを訊くんだよ。プログラムでオレに従うお前にとって、その質問は意味があるのか?」
「訊きたいから訊いた。駄目?」
「ミカサ」は、そんなことを訊いてきたことなんてなかった。世代が変わるごとに、パソコンもどんどん感情豊かになっていってるらしいとは知っているが、だからってこんな、
「一丁前に、人間の女みたいなことを言ってんじゃねえよ」
パソコンは機械だが、人間と同じように喜んだり悲しんだりする。それは「ミカサ」でよく分かってたことだ。それでも「ミカサ」は、女になろうとなんてしていなかった。オレから見ればかわいい女の子だったけど、本人は人間の女と同じような存在として振る舞っていたわけじゃなかった。
「エレン?」
ミカサが首を傾げる。こんな仕草まで、「ミカサ」と何ひとつ違わないのに。
「悪い。今はあまり食欲ない」
箸を置いて立ち上がる。風呂道具を持って、玄関に向かった。
「エレン、どこに行くの」
「見れば分かるだろ。銭湯だ」
ミカサの顔も見ずに、外に出る。通い慣れた道を歩きながら空を見上げた。今日は曇っているから、星が見えない。天気予報じゃ、雨は降らないって言ってたな。
オレは何をやってるんだろうか。パソコンであるミカサに、いったい何を求めているんだ。より人間に近いパソコンが世間じゃもてはやされているから、ミカサもそれに倣って、「ミカサ」の頃より人間らしい言動が多くなるように設定されているだけだっていうのに。ミカサにいらついたところで、何の意味もない。嫌なら、ミカサの設定を変えればいいんだからな。
あいつには「ミカサ」のデータが入ってるし、「ミカサ」と同じ外見にされているが、決して「ミカサ」じゃない。「ミカサ」のデータは「ミカサ」が忘れっぽくなりだした頃からバックアップをとってないから、「ミカサ」は知ってて今のミカサは知らないこともある。少しずつ忘れていくだけなのに、バックアップなんてとっても意味ないと思ったからだ。そして逆に、ミカサが知ってることで「ミカサ」は知らなかったこともある。
いい加減、「ミカサ」の影を追うことをやめればいいのかもしれない。もう「ミカサ」は戻ってこないことを受け入れて、ミカサはミカサだと思えれば楽なんだろう。だがそれでも、考えてしまうんだ。どうしてあいつは「ミカサ」じゃないんだろうって。
そんなことを思っている間に銭湯に着いたオレは、適当に風呂を浴びて一時間ほどで帰った。部屋に入ると、テーブルの上から夕食が消えている。
「お帰りなさい、エレン。今日はもう食べないようだったので、生姜焼きは明日のお弁当のおかずにしたのだが」
「さっきは食欲なかっただけで、今日は食わないなんて言ってないぞ」
「……えっ?」
ミカサが目を丸くする。
「生姜焼きはもう弁当箱に詰めたのか?」
「う、うん」
「なら、それはいい。他のはどうした?」
「他は、既に口をつけたものを鍋やお釜に戻すのも憚られたので、三角コーナーに」
「勝手に人の食い物を捨てるんじゃねえよ」
眉を下げたミカサが、「ごめんなさい」と俯いた。
「気が回りすぎるのも考えものだな。最近のパソコンは昔のよりも独断でできることが増えたが、代わりにマスターに判断を仰ぐだけのかわいげは減ってるのか」
風呂道具を放り投げて、ミカサに近づく。ミカサは気まずそうに上目でオレを見た。
「前の『お前』ならこういう時、ラップをかけて置いたままにしてる。それなら、どうするかオレが自分で判断できるからな」
ミカサが一瞬だけ視線を外し、またオレへ目を向ける。
「次からはそうする。勝手なことをして申し訳ない」
「謝ればいいと思ってんのか。オレの薄給ぶりはお前も分かってるだろ。少しでも食い物は無駄にできねえんだよ」
こんなのは口実でしかないと、自分でも分かっている。オレが怒っているのは、食い物を捨てた行為そのものに対してじゃない。「ミカサ」なら取らない行動を、こいつが取ったことに腹が立ってるんだ。
「謝って済むことではないのは分かっている。だが、いちど捨てたご飯をまたエレンに食べさせるわけにはいかないので、もうどうしようも」
「それくらいはオレも分かってる。また食えるようにしろ、なんて無茶を言うつもりはない」
こいつは理解していない。何のために自分が「ミカサ」と同じ姿なのか、何で自分に「ミカサ」のデータが入っているのか。
「でも、ただで済ませるのも癪だな」
ミカサの両肩を掴むと、怯えた目をオレに向けてくる。オレは今、どんな顔をしてるんだろうか。
「身体に言うことを聞かせるとか言ったりするが、それってパソコンにも通用するのか?」
「え、エレン。それはどういう」
「なに言ってんだ。意味わかってんだろ。お前の身体だって、そういうことができるようになってるんだから」
パソコンってやつは、プログラムの及ばない範囲のことに対しては、とことん馬鹿になるものなんだな。「ミカサ」と同じように振る舞っていれば、最新のソフトよりも「ミカサ」のデータを優先して動いておけば、オレを満足させられるなんて予測もしていない。
「オレが怖いのか、ミカサ」
オレから目を逸らしたミカサに顔を寄せる。ミカサが首を軽く左右に振って、
「そういうわけでは、ない」
そういうわけあるんだろ。乱暴なことをされたからって怪我をするわけじゃないのに震えてるし。
そういえば、怖いって感情もオレと「ミカサ」が話してる時に、「ミカサ」が覚えたものだったな。いちばん起きてほしくないことをオレが訊いた時に、「ミカサ」が理解した感情だった。
床の上にミカサを押し倒す。泣く寸前のような表情だが、さすがに涙は出てこないようだ。どんなに人間みたいな肌をしていても、やっぱり機械なんだな。
「ミカサ」には、最後までそういう意味で触れることがなかった。でもこいつは「ミカサ」じゃない。オレが五年間、壊れ物よりも大事にしてきた存在じゃない。
ミカサの首筋に噛みつくと、身体を跳ねさせて小さく悲鳴を上げた。ここまで人間と変わらない反応をするものなのか。もっと淡々と、人形みたいに受け入れると思ってたのに、最近のパソコンは本当にリアルにできてるんだな。
ミカサの身体をまさぐると、明らかに怖がりながらも身体をびくつかせる。そんなミカサを見ていると、「ミカサ」の言葉が脳裏によぎった。「ミカサ」が怖いという感情を理解した時に、言ったこと。
『私にとっていちばん起きてほしくないのは、エレンがいなくなってしまうことだ。エレンがいなくなったらと考えるだけで、胸が痛くなる。痛くて、動けなくなりそうだ』
その怖いという感情を今ミカサに与えているのがオレだなんて、なかなか滑稽だ。そう考えると、おかしくもないのに笑えてきた。
目の前にいるのが「ミカサ」だったら、きっとオレはこんな馬鹿なことをしていなかったのに。
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update 2014/7/13