副官の欲望
調査兵団分隊長ミカサ(27)とその副官エレン(20)の話です。
----------------
いつもと同じように、ミカサさんと並んでベッドに座る。彼女に渡されたワイングラスに注がれている赤ワインをひとくち飲み、口を離した。
「ミカサさん。苦くないですか、これ。よく飲めますね」
手元のグラスに入っているワインを示すと、横に座っているミカサさんが笑った。
「今はまだ、そう思うかもしれない。エレンにもそのうち、分かるようになる」
ワインの香りを堪能するミカサさんを見ていると、歳の差を実感する。どれだけ時間が経っても、七年の違いは埋まることがない。こういうちょっとした部分で、この人の方が大人であることを思い知らされるんだ。
「白ワインの方が甘いので、あなたにはいいかもしれない」
「それ、先に言ってくださいよ」
「ごめんなさい」
微笑んで肩をすくめるミカサさんに、オレも笑いかけた。
「白ワインに替える?」
「いえ、いいです。もう口つけましたし」
「そう。ナッツは?」
「いただきます」
白い皿に載ったナッツを何粒か摘み、口に運ぶ。ミカサさんは皿をベッドに置き、自分のワイングラスを手で回し始めた。
「何だか不思議だ。エレンと一緒に、お酒を飲んでいるなんて」
「確かに。オレが入団してから、もうそんなに経つんですね」
ワインをおいしそうに飲むミカサさんの横顔は、とても綺麗だ。初めて会った時から綺麗な人だったけど、時間が経つごとに磨きがかかっているように思える。
ミカサさんを見ながら、自分のワインを飲んだ。やっぱり苦い。いつかはこれを、おいしいと感じる日が来るのだろうか。赤ワインは血みたいだと言っていた二十二歳のミカサさんは、これをおいしいと感じていたのだろうか。
「この五年の間に、いろいろとありましたね」
「ええ、本当に」
いま隣にいる彼女に一目惚れをして、彼女の抱えているものや思いを知って、更に好きになっていった。この五年間、少しでも早く巨人を駆逐したくて、東洋へ行くという彼女の願いを叶えてあげたくて、突っ走ってきた。そして最近、やっと彼女と思いが通じ合えた。
「何だか、夢を見ているようだ。あなたとこうしているのはとても幸せだけど、巨人との戦いのことばかり考えていた時期が長いせいか、実感がない」
「今は、そうかもしれませんね。でもそのうち、現実なんだって思えますよ」
本当はオレも、まだ夢心地だ。だけど、ミカサさんもオレを好きだと言ってくれた。これは現実なんだ。
左手で、ミカサさんの右手を握る。彼女も握り返してきて、はにかんで見せた。これくらいは照れずにできるくらいには、自分も大人になったようだ。
「なるほど。で、それからどうなったの?」
オレの向かいでパンを食いながら、アルミンが身を乗り出してくる。
「その後は、いつものパターンだよ。結局ミカサさんが潰れて、オレがミカサさんをベッドに寝かせてから自分の部屋に戻るって感じの」
スプーン片手に答えるオレに、アルミンが溜息を吐いた。
「エレン。君、分隊長と両思いになってからどれくらい経ったの?」
「どれくらいって。今期の新兵が入団したのと同じ日だから、そろそろ一か月だな」
「その一か月の間に、何か恋人らしいことはした?」
「えっ?」
恋人らしいことって言うとつまり、キスとか、そういうのだよな。
「いや、全然」
「あー、そうなんだ。まあ、そういうのは早ければいいってものでもないし、それぞれペースがあるとは思うけどさ」
「さすがに一か月もあったら、何か進展があってもいいんじゃないかな」とぼやくアルミンに、返す言葉もない。確かに、手を出すチャンスがなかったわけじゃないのに、キスすらしたことがないのは事実だ。
「くっつくまでが長すぎたから、いきなりそういう雰囲気にはなりづらいとか?」
「それはある」
ただ傍にいて、話をして、酔い潰れたミカサさんを寝かしつける時もあったりする。ずっとそんな調子で、色気のある展開なんてなかったから、どうやって踏み出せばいいか分からない。
「まあ君達がそれでいいなら、僕がとやかく言うことじゃないと思うよ。でも実際のところ、エレンはどうしたいのかな」
「どうって、それは」
そういうことをしたくないと言えば、嘘になる。だがもしかしたら、彼女はそれを望んでいないかもしれない。そうだとしたら、自分の欲望を一方的に押し付けることはしたくない。
「エレン、分隊長とそういう話は全然してないんだね」
優しげな微笑みを浮かべて、アルミンがオレを見る。
「恥ずかしいとか、どう切り出せばいいのか分からないとか、あると思うよ。でも二人のことなんだから、ちゃんと分隊長とも話してみなよ」
どうしてこういう時、アルミンは大人なことを言うんだろうか。誕生日はたった数か月しか違わないって言うのに。もしかして、オレが落ち着きないだけか?
「頑張ってね、エレン。応援してるよ」
「ああ。ありがとな、アルミン」
思えば、ミカサさんと両思いになるまでの五年間、ずっとアルミンは見守ってくれてたんだよな。オレがうだうだ考えている時に背中を押してくれたのもアルミンだったし、この親友には感謝してもしきれない。
「お前の言う通り、ミカサさんとも話をしてみるよ」
アルミンは満足そうに頷いて、パンを再び食べ始めた。
白ワインが注がれているワイングラスを、ミカサさんから渡された。
「飲んでみて」
口に含むと、確かに赤ワインより甘みがある。これならまだ、飲めるかもしれない。
「ビールの方がお酒としては軽いが、私があまりビールを飲まないので、ワインばかりになってしまってごめんなさい。ビールの方がいいなら、用意しておく」
「いえ、気にしないでください。オレ、これは結構好きかもしれないです」
ミカサさんは安心したように笑い、チーズを差し出してきた。
「ありがとうございます。でも、ミカサさんは全然食べませんよね。この間のナッツもそうでしたけど」
「私は、おつまみなしで飲むことにも慣れているので構わない。しかし、お酒を飲み始めたばかりのエレンが悪酔いしてはいけないので」
せっかく用意してるんだから、自分でも食べればいいのに。
チーズを一切れ食べて、白ワインを飲む。このチーズ、ワインに合ってるな。
「おいしい?」
「はい」
嬉しそうに笑うミカサさんに、オレも笑顔で返す。
やばい。完全にこれ、いつものパターンだ。どういうタイミングで、話を切り出せばいいんだろうか。
「チーズはまだあるので、遠慮せずに食べて」
「そんなにあるなら、ミカサさんも食べたらいいじゃないですか」
「私は大丈夫。お腹も空いていないので」
「そう言ってワインばかり延々と飲んで、酔い潰れたミカサさんをいつも寝かしつけてるのは、オレなんですけどね」
「……ごめんなさい」
ミカサさんがチーズを口に運ぶ。別にミカサさんの介抱が嫌なわけじゃないが、こう言った方がこの人は聞き入れてくれやすい。
「エレンはあまり量を飲まない。まだ飲むのに慣れていないから?」
「それもありますけど、オレまで潰れたら、ミカサさんをベッドに運ぶ人間がいなくなりますからね」
「エレンの意地悪」
ミカサさんが拗ねたようにそっぽを向く。
「そんな顔しても、かわいいだけですよ」
横から抱きしめて、こちらに顔を向けようとするが抵抗される。
「こっち向いてくださいよ」
「嫌だ。いま絶対、変な顔をしてるので」
「変じゃないですよ。ミカサさんはどんな顔をしていても綺麗です」
「どうしてエレンはそうやって、恥ずかしいことを言うの!?」
表情は見えないけど、ミカサさんの耳や首元まで赤くなってることは分かる。当然、顔も真っ赤なんだろう。
「顔、見せてください」
「やだ。エレンはなぜそんなに諦めが……あっ」
ミカサさんがバランスを崩し、ベッドに背中から倒れる。つられてオレも体勢を崩して、ミカサさんの上に覆い被さる形になった。
「やっと、顔を見れました。やっぱり綺麗ですよ、ミカサさん」
赤く染まった顔のミカサさんが、オレから視線を逸らす。
「エレンは、もう本当に、大人の男性になったのね」
「それは、どういう意味ですか?」
「その、それは、つまり」
小さな声で呟いたミカサさんが、目を再びオレに向ける。
「エレンはもう二十歳で、兵士としての経験も積んできて、立派な大人だと頭では分かっていた。だが、エレンを入団した時から知っている私とすれば、エレンはまだ子どもだという感覚もあった。確かにエレンは背が伸びたし、元々鍛えてはいただろうが、体格も更によくなった。しかし私の中でエレンは未だに、無邪気でかわいらしい少年のままだった」
この人が十五歳のオレをそう思っていたとは、初耳だ。
「しかし、今こうしてエレンを見ていると、エレンは男性なんだと強く感じる。今まで思っていた以上に、たくましく見える。すごくどきどきして、さっきから心臓の音がうるさい。私が私じゃなくなりそうだ」
「嬉しいです。ミカサさんがそんなにオレを、男として意識してくれるなんて」
顔を近づけると、ミカサさんが目をきつく閉じる。身体を小さく震わせている姿が、本当にかわいい。
「ミカサさん。キス、していいですか」
「……嫌だったら、さっきみたいに抵抗している」
「ああ、それもそうですね」
距離を詰めて、瞼を下ろす。唇に、柔らかいものが当たった。肩が跳ねたミカサさんの腕を掴み、角度を変えて口づけを深めていく。
キスしてるんだ。今、ミカサさんと。この五年間ずっと、触れたくて仕方がなかった人と。
唇の隙間から、ミカサさんが息を漏らすのが色っぽい。キスって、こんなに甘いものだったのか。
顔を離して、ミカサさんの顔を見る。目が合うと、照れくさそうに彼女が俯いた。
「驚いた。キスって、こんな感じなの?」
「ミカサさん、初めてだったんですか」
「男性と付き合ったことがないと、むかし話したと思うが」
確かに、五年前そう聞いた。この五年の間も、オレの告白について真剣に考えてくれていたのか、ミカサさんの周りに男性の影がちらつくことはなかった。
「でも、それと男性経験については別ですよね。付き合ってなくても、そういうことをする人もいるじゃないですか。ミカサさんはオレより七歳も年上なんだし、そういう経験はしている可能性もあるかと」
「そう。あなたには、私がそんなふしだらな女に見えていたの」
「違います。あくまで、可能性の話です。実際のところは、ミカサさんはあまり男性に慣れてなさそうだから、それはないだろうと思っていました」
だがそれは、あくまでオレの推測でしかなかった。ついさっき、キスすら初めてだったと知るまでは。
「もしミカサさんにそういう経験があったとしても、オレのミカサさんへの気持ちは変わりません。でもやっぱり、ミカサさん、処女なんですね」
ミカサさんが、軽く頬を膨らませる。
「なぜ、嬉しそうなの」
「当たり前じゃないですか。だって、初めてって一回しかないんですよ。好きな人の初めてをもらえるなんて、嬉しいに決まってるでしょう」
また真っ赤になって、ミカサさんが顔を逸らした。
「確かに、私は処女だが、その」
「……ああ、すみません。普通にオレがもらう前提で話してしまって」
「いや、それは構わない。構わないが、心の準備というものが」
ん? ミカサさん、今、
「構わないって、その、オレがもらってもいいってことですか? ミカサさんの初めてを」
「他に誰がもらってくれるの? 別に、エレンがいらないなら私は」
「いえ、いりますいります! オレに初めてをください!」
ミカサさんが目を丸くして、オレを見る。そんな彼女に、自分の発言を思い返して、脱力した。何だよ今の。どんだけがっついてるんだ、オレ。
ミカサさんの右手が、オレの袖を摘んで軽く引っ張る。
「エレン。私の心の準備は完了した」
「えっ?」
「エレンのタイミングでいいので、私を、もらってほしい」
それは今、この場でってことか? それとも、それすらもオレに任せると言うのか? どっちにしろ、そんなことを言われて我慢できるほど、オレは人間ができていない。
ミカサさんの身体を抱きしめて、口づけする。ミカサさんがオレの首元にしがみついて、応じてきた。右手で背中から腰までをなぞり、胸へ手を滑らせると、ミカサさんの身体が跳ねる。
「ミカサさん。やっぱり嫌だって思うなら、今のうちですよ」
「大丈夫。嫌ではない」
震えてはいるものの、オレの目を真っ直ぐ見つめて、ミカサさんが微笑んだ。彼女の額にキスを落として、柔らかい身体をまさぐる。
「エレン。嫌ではないが、その、優しくしてくれると嬉しい」
「……約束はできませんが、頑張ります」
「どうだい、エレン。分隊長ときちんと話はできた?」
朝の食堂で、アルミンが笑いかけてくる。
「アルミン。オレには話し合いは向いてないって、よく分かったよ」
「えっ、もしかして喧嘩? その割には嬉しそうだけど」
「そう見えるか」
正直なところ、浮かれていないと言えば嘘になる。目が覚めて、横でミカサさんが寝ているのを見た時の幸福感は、何物にも代え難い。
「やっぱりオレは、あれこれ考えるより、さっさと行動に移す方が性に合ってるみたいだ」
「まさかエレン、話し合いとかすっ飛ばして、分隊長と」
「……知りたいか?」
「当たり前だろ。五年間ずっと、君達の恋愛模様を見てきたんだから」
アルミンがオレの向かいに盆を置き、椅子に座る。
「まあでも、言いたくないって言うなら無理には訊かないよ。恋人同士の、二人だけのことだから誰にも教えたくないっていうのもあると思うし」
「そうか、さすがアルミンだな。じゃあ言わねえ」
「せめて申し訳なさそうな顔くらいしてよ。最初から言う気なかっただろ」
苦笑しながら、アルミンがスープを飲み始めた。こういうのが許されるのも、もう十年にもなろうかという長い付き合いのおかげだな。
「エレン。こういう時は、何て言えばいいのかな。おめでとう?」
「ああ、ありがとう?」
何か、妙な感じだ。こういうのって、他人に祝われるようなものなのか?
「エレン」
横から聞こえた声に顔を上げると、ミカサさんが立っていた。
「食べ終わったら、私の部屋に来てほしい。今度の会議について話したい」
「分かりました。ミカサさん、朝食は」
「もう食べた」
「あっ、分隊長。この度はおめでとうございます」
アルミンの言葉に、ミカサさんが目を丸くする。しかしすぐに赤くなり、
「や、ややこしいことを言わないでほしい。それではまるで、にんし……いえ何でも」
「エレン。さっき言ったこと、忘れないで」と背中を向けて、ミカサさんが食堂を後にした。
「確かに、女の人にこんなこと言ったら、そういう風にとられちゃうよね」
「楽しそうだな、お前」
本当はこいつ、ミカサさんとのこと、聞きたくて仕方がないんじゃないのか?
「これくらいの仕返しはさせてよ」
満面の笑みを浮かべる幼なじみに、オレは恐らく一生適わないのだろうと悟った。
----------------
update 2014/2/25