灰色の羽 サンプル | Of Course!!

灰色の羽 サンプル

 神や天使が住む天界の下には、地上の世界が存在する。地上の世界には人間が住んでおり、神の統治下にある。天使は地上の世界を監視し、神による統治を助ける。そうやって、世界は動いていく。

 だが地上の世界の果てに、神の目が行き届かない場所がある。悪魔が住むそこを、天使達は魔界と呼び、忌避している。悪魔は悪しき心を持っており、隙あらば神を脅かそうとする存在。それが天使達の間での共通認識だ。天使が悪魔と交わることがあれば、その天使はすぐに堕天使として、永久に天界から追放されることになる。気高き神の使いという自負を持つ天使達は、それを何より恐れていた。

 悪魔を忌む天使が自ら堕天使に身を落とすことなど、もちろんほとんどない。しかし心ない悪魔達は、魔界に迷い込んだ天使を犯し、天使の持つ純白の羽を黒く染めてしまうのだ。少なくとも、天使達はそう信じている。

 そんな『常識』を持つ天使の一人であるミカサは、途方に暮れていた。地上の監視を終えて天界に帰る最中に、道に迷ったのだ。

 進めば進むほど、見慣れない景色が広がっていく。太陽はまだ高い位置にある時間なのに、段々と周りが暗くなっていった。

 恐らくこのまま行けば、魔界に着くのだろう。そう確信しているが、どちらへ向かえば天界に戻れるのか、ミカサは完全に分からなくなっていた。

 いつの間にか森に迷い込んでいることに気づいた彼女は、恐怖心を押さえ込みながら足を進めていく。木々が鬱蒼と生い茂る薄暗い森は、とにかく不気味だ。

 いつ悪魔と出会うか分からないが、一度でも止まってしまえば自分が一人であることを実感して、動けなくなってしまいそうだ。だから彼女は、歩き続けた。

 木が邪魔で羽を広げることもできない。それ以前に、白い翼で舞うことは、近くに潜んでいるかもしれない悪魔に、天使がいることを自分で示すことになる。だから、足は疲れるが歩くしかなかった。

 自分は何をやっているのだろうか。来た道を戻れば、例え天界には帰れなくても、魔界から遠ざかることはできる。そう思うのだが、最早ミカサには、引き返す気力もない。森の暗さが、自分の心まで浸食していくようにも感じられた。

 考えてみれば、ミカサ一人がいなくなったところで、天界の誰も困らないではないか。天使は他にもいるのだし、ミカサの存在が抜けたところで、別の天使がその穴埋めをするだけだ。なら別に、悪魔に見つかって翼を汚されたとしても、構わないかもしれない。

 そんなミカサの思考は、誰かに腕を掴まれたことにより、断ち切られた。

「お前、どこに行く気だ」

 声のした方を振り返ると、金の瞳と視線が合う。短い黒髪を風に揺らし、真っ黒な翼を広げた少年が、そこにいた。

「あなた、悪魔

 少年が小さく肩をすくめる。

「それ以外の何に見えるって言うんだよ。少なくとも、絶対に天使には見えないと思うぞ」

 確かに、それもそうだ。そう思いながらも、ミカサは信じられない気持ちだった。彼の目には、悪意も邪気も全く宿っていないのだから。

「何なんだ、人の顔をじろじろと見やがって」

「……ごめんなさい。ただ、びっくりしただけ。あなたは、その」

「想像してた悪魔と違ったか そりゃ、期待に添えなくて悪かったな」

 不機嫌そうに顔をしかめる少年に、ミカサが眉を下げた。

「別に、そういうつもりでは」

「じゃあ、どういうつもりだったんだ。どうせお前達から見れば、悪魔っていうのは皆、神や天使の敵なんだろ。天使を見ればすぐに犯して堕落させようとする、獣だと思ってる」

「なっ、それは」

 違う、とは言えなかった。間違いなく彼女も、それを当たり前に信じていた一人だからだ。

 ミカサが、スカートの裾を握りしめる。

「私達は普段、悪魔と接する機会がない。神様は絶対の存在だと教えられ、ずっとそれを当たり前に思っているので、悪魔の全てが悪い人ではなかったとしても、それを知る術がない」

 自分を見つめる金色から目を逸らし、ミカサが俯いた。

「言い訳にすら、なってないと思うが」

「ああ、本当にな。そんなので納得できるわけないだろ。お前はただ、自分で考えるのを放棄してるだけだ。神の教えを盲目的に信じておけば、楽だからな。お前自身は余計なことを気にせずに済むし、何かあれば全て神のせいにできる」

 彼の言う通りだった。ミカサは、天界で教えられたことを疑ったことがなかった。天使の中にだって、自ら堕ちることを選ぶ者や、神を敬わない者、人間を傷つけようとする者がいる。同じように、悪魔も全員が悪人ではないと思い至るのは簡単なことだというのに。

「私は、意思を持たない人形のような存在ということ

「そうだな。今のままじゃ、いつまで経ってもそうだ。でもお前はこうしてオレと話してる間に、少しは自分の認識を改める気が起きたんじゃないのか」

 ミカサは顔を上げ、少年を見る。頷いて、彼の頬に触れた。

「こんなに綺麗な瞳の人は、今まで見たことがない」

 少年が目を見開き、顔を逸らす。

「お前な。天使とか悪魔とか抜きにして、初対面の男相手に無防備すぎだろ」

「確かに初対面だが、私はあなたを信じられると思っている。あなたが私の思っていたような悪魔であれば、きっと私はとっくに、白い翼の天使ではなくなっている」

「まあ、それもそうだが」

 溜息を吐いた少年が、ミカサの手首を掴む。

「行くぞ」

「どこへ

「こっちに行けば、天界に戻れるはずだ。天使がこっちの方から迷い込んでくることが、ちょくちょくあるからな」

 少年が指したのは、ミカサの進行方向より僅かに右寄りだった。

「あのまま歩いてたらお前、本当に戻れなくなってたぞ。何だかんだ言っても、お前らが思ってる通りの悪魔だって多いし」

 ミカサの腕を掴んだまま、少年が歩き出す。彼に合わせて、ミカサも足を進めた。

「あの、ありがとう」

「別に。瘴気に当てられてる奴をほっぽりだすのも、どうかと思うからな」

「瘴気、って

 少年が呆れ顔で振り返る。

「お前、そんなのも知らないのか」

「だ、だって、初めて聞いたので」

「まったく。こんな世間知らずな奴を地上に下ろすのか、天界ってとこは」

 「神とやらも、なに考えてんだろうなー」と言いながら、少年はミカサを引っ張っていく。

「この辺りは悪魔の魔力が淀んでいて、空気が悪いんだ。天使でも何ともない奴はいるらしいが、大体は魔力の瘴気に当てられて弱るみたいでな」

 少年の物言いに、ミカサが何度も瞬きをする。歩みを止めた少年が、気まずげにミカサを見た。

「らしい、とか、みたいだ、ってのは、あれだ。つまり」

 頭を掻いた少年が、目線を空へ移す。

「オレも正直なとこ、お前にえらそうなことを言えるほど、天使のことを知ってるわけじゃない」

 ばつが悪そうな様子の少年に、ミカサが微笑んだ。

「なら、これから知っていけばいい。お互いに」

「そうだな。これから……って、えっ

 少年が目を丸くして、ミカサを見る。

「お前それ、どういう」

「また、来てもいい 私はあなたのことを、もっと知りたい」

「はあ なに言ってんだ。お前は天使で、オレは悪魔だぞ」

「しかし、あなたはいい人」

「そんなにあっさりと他人を信用すんな。オレだからまだいいようなものの、他の悪魔だったら」

 少年が大きく肩を落とした。

「本当に何なんだ、お前。よっぽど純粋培養だったのか知らないが、それでよく今までやってこれたな。オレ以外の奴と遭遇してたら、本気でどうするつもりだったんだ」

 ぼやきながらも、少年が再びミカサの手首を掴む。

「もう少し歩くぞ」

「分かった」

 そのまま二人で進んでいく。五分ほど歩くと、地面から空へ続く虹が現れた。天使しか通れない、天界と地上の架け橋だ。

「あれだろ お前の目的は」

 ミカサが大きく頷く。少年の手が、ミカサから離れた。

「じゃあな。気を付けて帰れよ」

 虹へ向かって歩いたミカサが、上る直前で少年の方へ振り向く。

「あなたの名前を教えてほしい。私はミカサ」

「……エレン」

「そう、エレン。また会おう」

 ミカサはそれだけ言い残し、虹を上って行った。後に残ったのは、複雑な表情を浮かべるエレンのみだ。

「あいつ、馬鹿じゃねえのか」